RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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読書 (2006/09/24(日) 03:48:17)
日本語で上手な文章を書くには:10の「べからず」
↑に関して言及。ただし分析のみ。

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コクセーチョーサ (2005/10/15(土) 23:43:38)
国勢調査の方法が問題になっているけれど、あの、地域で一人担当を決めて、全ての家庭を回って集めさせるって、要は学校のクラスの「係り」とか「委員」とかの発想なんだよな。ああ、やだやだ。本当にあれは、子供心に、面倒だとか以前に、どう考えても効率が悪いし合理的ではないし(わざわざ仕事を作ってまで割り振るとかね)で常に何とも嫌だった。概念そのものが。

掃除当番とかもわけわからないし。(安い学費で提供されている)公立学校だから用務員とか業者に掃除してもらうんじゃなくって自分達でできる事は出来る限り自分達でやるようにしよう、というのらともかく、「自分達の使う所だから自分達で綺麗にしましょう」と訳のわからない勝手な価値観を押し付けられるのが本当に嫌だったし、やるならやるで、二人くらいでやれば十分じゃないかと。

そういえば、高校で入試の手伝いに何の理由付けも無しに借り出されたのも嫌だったなあ。国立学校だから、安い学費の代わりに学校の運営もある程度生徒達でやりくりするっていうような考え方ならばそれは当然ありだと思うんだけど、生徒が学校の業務を手伝うのは当然だろ?的な無造作な感覚は全く受け入れる事ができない。

結構多くの学校で、部活が義務付けられていて、しかも毎日放課後は遅くまで部活漬けで、しかもそれが保護者達に歓迎sれていたりするらしい。つまり、放課後に自由な時間があると何をするか分かったもんじゃないから学校で拘束しておいてくれると安心だという事らしい。

学校というのが、教育機関である以前に、ある非常に閉じた小さな擬似社会になってしまっていて、生徒達から何かを「奪う」事にあまりにも無頓着になってしまっているのが現状の最大の問題点だ。現在の教育の問題点はそれが何かを教えている事でも、何かを教えていない事でもなく、それが無造作に、無頓着に、「奪う」事だ。

そういった事に対する感覚の麻痺がこういった国勢調査のあれやこれやにも、歪みとして現れてきているのだろうな、と思う。
エルオーテーアール (2005/08/19(金) 19:24:50)
こういった、アイデンティティとか立場という物が視点の全てとなってしまって正常な議論が行われない、それどころか議論という行為自体が無効になってしまっている状況というのは、現代においてはそこここにある。人類の活動がこれほどまでに国際的レベルにまで及んでしまっては、それはある程度仕方のない事だろう。

しかしこうした問題が非常にうまく対処され、望ましい議論が成立した例として印象深かった例がある。映画The Lord of the Ringsの字幕改善運動だ。
ダビュリュサンシー (2005/08/19(金) 02:28:31)
モヒカン族
まあ、しばらく前から見るようになった、まあ簡単に言うとネット社会における技術至上主義者というか、正しい事主義者というか、まあそういう種族。

これもやっぱり科学vs.非科学のような対立構造と同じで、立場・アイデンティティが行動原理の大きな部分を占めている人達によって状況がややこしくなる例だと思う。アイデンティティの確立のために対立陣営の存在を必要とする事が対立構造を成立させ、維持させてしまっている。
ウォーアンドサイエンス (2005/08/09(火) 03:36:59)
原爆以来、科学者達の一部はある種の責任感と使命感を持って、戦争や兵器開発に関する政治的、思想的発言、活動をするようになった。

ところがこうした発言、活動はある責任感、使命感の下で科学に携わる人間が、政治的、思想的発言、活動``も''している、というのにすぎないと感じる事がある。科学の営みを全体的に疎視化して見ると、常に戦争とか、兵器開発とかと一定の距離をおこうとする姿勢が見られる。そこには、「科学を戦争などという下劣なものに使うな」というような思考が存在してしまってはいないだろうか。

現状の科学は、ある人達は需要に応えて要求された物を作るという産業的な関わり方をし、残りの人達は研究活動において(少なくとも目の届く範囲で)戦争や兵器開発に関わりを持とうとしない姿勢を貫いている。そういう状況で、しかし無関心ではいかんだろう、と政治的、思想的な発言、活動を行ったとして、そこでは個人の力のみが影響力となり、科学の(さらには学問の)とてつもない強力さが活かされる事はない。

科学はもっと積極的にこうした分野に関わるべきではないだろうか。例えば、核兵器に対する効果的な防御技術の開発は、核兵器に固執する意味を大きく失わせるだろう。さらに、独占が絶え間ない競争を生む構造を解消し、兵器技術がアカデミズムによって広く共有されるようになり、しかもそれが非常に高度で日々物凄い速度で進歩するようになれば、一国の一機関が排他的に研究を行う事でその先を行くという事が不可能になるだろう。そうなれば、どこかの誰かが兵器を使いたくならないようにする事、そして使われたとしても被害をほとんど受けないようにする事こそが、重要視されるようになるはずだ。

(アカデミズムの営みとしての)科学が社会的な力すら持つようになったのは、現代社会の``知''の重要な部分を担っているからだ。もっと通俗的に言えば、(それが何を意味しているにせよ)「大学教授って頭が良い人なんだよね」という社会的通念だ。それにも関わらず、一部の軍事機関、軍事産業はこの分野においてアカデミズムの下で行われる科学のはるか上を行き、知識と技術をそれぞれに独占しているのが現状だ。
パラドクス (2005/08/02(火) 02:18:10)
ここまでで書いたように、物理学は基本法則という物を、少なくとも机上の空論の段階では正否をどうこう議論できるような物ではない、という理解を達成してきました。つまり、物理学で基本法則と呼ばれるような法則はどれも、「この世界が実際にその法則に従っているかはいざ知らず、あなたが突然神様に任命されて、この法則に従って世界を作るよう命じられた場合に、特に困ることなく世界を作る事ができる」ような法則なのです。

実は、パラドクスと言われる議論の多くはここを問題にします。それらは、「この世界が実際にその物理法則に従っているかどうかは度外視して、それ以前に物理法則自体が内部に問題点、矛盾を含んでいるから、そもそもその物理法則に従ってどんな世界も作る事ができない」、と議論するのです。

このために、物理学者の多くは、「そりゃあ、今の物理法則が絶対に正しいとは限らないのは確かだけど、少なくとも、そんな基本的な所で間違っているわけはないだろう。大体、物理法則を否定しようとするなら、そんな風に机上の空論で遊んでばかりいないで、やるべきは世界を観察して現在の物理法則で説明できない現象を探す事だろうが。話にならん。」と、この類のパラドクスを云々する主にトンデモ科学な人々を相手にしません。しかし一方でこうしたパラドクスによって例えば相対性理論は間違っていると主張するトンデモ科学な人々は、「こんな基本的な部分にさえ問題を含む理論をこねくり回して行う議論に意味があると考えるなんて、物理学者は馬鹿の集まりだ。」と言うのです。ここにあるのは、やはり深い深い溝です。

こうした状況は、トンデモ陣営の人々の、理解を拒む、というより、広く受け要られている物理法則が否定された方が面白いという感情を最優先する姿勢に負う所が大きいのでしょうが、
#とは言え、物理学が行ってきた、天才達の天才的なひらめきが現在の難しく高度な物理学を作ってきたという宣伝が、奇妙な突拍子もない着想が偶々多くの人に受け入れられて主流派となった結果が現在の物理学理論であるという認識に繋がり、一部の人々の功名心を刺激してこういった姿勢を助長しているという点は無視できません。
同時に、物理学はせっかく、物理法則を「少なくとも机上の空論の段階で問題を含むような物ではない」という理解にまで昇華するよう努力してきたのですから、その努力を教育や教科書の記述に活かす事でこの状況の改善に貢献すべきです。

そして物理学はそれを怠ってきた。物理学の教科書におけるパラドクスの扱いは、大抵の場合各論で何らかの計算をして問題がない事を示す物ですが、読者が何らかの誤解をしているからパラドクスが生じるのであり、一部の読者はこのような説明を読んで、自分の思考を反省する事によってどこに根本的な誤解があったかを理解することができるでしょうが、多くの場合にはそれはできず、結局、その特定の場合に問題が生じない事を納得しても(その納得はおそらく曖昧な物でしょう)、そもそもパラドクスが生じようがない、という理解に達する事はできません。物理学の教科書の責務は個々のパラドクスを``解決''する事ではなく、パラドクスを生じさせる原因となるような誤解に繋がる曖昧な記述を改善する事です。もちろん、きちんとした記述がなされていた場合にも読者が乱雑に読んで勝手に誤解や曖昧な理解をするという事はあるでしょうが実際多くの(必ずしも評価の低くない教科書でも)パラドクスに繋がるような曖昧な記述が見られます。なまじ正しい事を説明しているために、説明が無邪気で、曖昧なものとなり、学習者を苦しめる事になります。

一方で、現在の物理学理論は実は間違っている!とするようなトンデモ科学な文章は、特に本当はちゃんと理解しているのに無理やりそれらしく見えるパラドクスをでっちあげようとしている人間も少なからずいるようで、パラドクスを生じさせる原因たる根本的な誤解をまざまざと描き出すような、先進的な文章すら見られます。

例えば、私が依然に読んだ、「熱力学の第二法則は間違っている!」という記事では、何ページも使って記者が熱力学を否定しようと一所懸命(それ自体熱力学が巨視的法則であるという事を理解していない(ふりをしている)だけの突っ込み所満載の記事だったのですが)頑張っているのですが、短いコラムが載っていて、そこに「熱力学の第二法則は孤立系についての主張だが、そもそもこの世界に孤立系など主張しないから、熱力学の第二法則に何の意味があるだろうか?」と書いてあって大爆笑した事があります。というのも、まず第一に、このコラムの主張がもし正しければ熱力学の第二法則を批判するにはこのコラムだけで十分で、誰かがすごく頑張って書いたであろう本文の記事が全くの無駄になるからで、第二に、熱力学の第二法則を、特に孤立系という特別な場合に関する主張という形(エントロピーは増大する、あるいは乱雑さは増大する)でのみ知っていて、それを無造作に様様な場合に適用するという事は、まさに、熱力学の第二法則に関する混乱の一つの主要な要因であるからです。明らかにこのコラムの筆者は、問題の所在を理解していました。

同じような話として、いくつかの相対性理論は間違っている!文章では、相対性理論では光速度不変の原理を出発点におくが、光を用いて時間と距離を定義するのだからこれは循環論法で意味をなさない!他の定義を用いれば他の結論になる!という主張を目にします。

実はこれは問題意識としては全く正しいのです。ただ、相対性理論を否定する根拠とはならないだけで。

相対性理論における``時間''とは、物理法則を性質良く自然に記述するために人間によって見出される、ある意味で人工物です。これは、非相対性理論的な物理学における``時間''とも、先験的な概念としての``時間''とも明確に区別されるべき物です。

そして、このような人工物を作らなければならなかった理由は、先見的な概念としての``時間''および、非相対論的な物理学における``時間''に対して期待されていたある一連の期待(前者に関しては絶対性等、後者に関しては対象性、相対性等)の全てを満たすような``時間''は、この世界には存在していない事が実験によってわかったからです。
#マイケルソン・モーリーの実験などの光速度一定が確かめたと言われている実験は、まずこの視点から捉えるべきです。

そうなると、私たちの物理学の議論は全く灰燼に帰してしまいそうに見えるのですが、幸いな事に、物理学の``時間''に対する期待を満たす``時間''にいくつかの点で類似した「何か」を構成することができました。これが相対性理論における``時間''です。

相対性理論に関する誤解の多くは、相対性理論における``時間''と先見的概念としての``時間''および非相対論的な物理学における``時間''とを明確に区別していない事による場合が非常に多いのです。

しかし一方で、相対性理論の教科書の多くにおいても、これらの``時間''を明確に区別せずに用いていて、それによって、例えば「運動するロケットの時間は遅れる」といった相対性理論の主張の不思議さを無闇に強調しようとします。おそらくどんな人間も、運動するロケットに積んである「時計」の振る舞いについて、実験をまたずして何らかの結論を下す事はできないでしょう。相対性理論における``時間''(これは時空の一様性を反映していますから、ロケットに積んだ時計の振る舞いと地上に置いた時計の振る舞いの関係を自然に記述します)と先験的な、日常的な概念としての``時間''との読者による混同を意図的に見てみぬふりをする事でこの結論を印象付けようとする姿勢が、誤解とパラドクスを生み出しているのです。

先験的な、日常的な``時間''概念に絶対性が期待されるのは、私たちがこの世界の性質について何らかの先入観を持っているためというよりも、私たち人類が多くの場合単一の時計を参照しているという理由が大きいでしょう。

実際、相対性理論は時間の相対性を明らかにした、と言われますが、明らかに、絶対時間は三秒で構成できます。それには単に、どんな場合にも同一の時計を参照する、と約束すれば良いのです。というか、そのような時計は、売っています

重要な事は、この場合相対性理論的な``時間''の満たすある性質を放棄し、その代わりに絶対性がなりたつようになっている、という事です。そして、このような電波時計を高速度で運動しながら用いた場合でも使えるようにするためには、特別な工夫が必要でしょう。そしてそれは、相対性理論で計算した場合と非相対性理論的な物理学で計算した場合とでは異なる結果になります。このように、「運動するロケットの時間は遅れる」とか「時間は絶対的ではない」とは、相対性理論で通常用いられる物理法則の特定の表現方法に依存した主張なのですが、もちろん、相対性理論は実際に意味のある主張を行ない、それは、実験によって検証可能なのです。

このように、相対性理論の教科書では、何よりもまず相対論以前の``時間''概念に対して物理学が期待していた一連の性質を列挙し、それらを全て満たすような``時間''が存在しない事をいくつかの実験によって言うべきです。ここには、読者が相対性理論のある部分について不思議だ、奇妙だと思う事があるとして、その根本的な要因の全てが集約されています。そしてさらに、相対時間を否定して絶対時間を主張するようなトンデモ科学の議論の混乱を良く整理する事に繋がるはずです。

#絶対時間の否定は、探しても見つからないというような消極的な否定とは異なる積極的な否定であるから、どんな議論も間違っている可能性は常にあるとは言っても、ここに残っている間違いの可能性は、過去の物理学者達が皆、何か根本的な考え違いをしていた、という非常に細い道である。絶対時間と相対時間を対立概念と見なす傾向があるが、絶対時間が否定されて、仕方なくその代替物として作ったのが相対時間である。相対時間が将来的に否定される可能性は常にある。しかし相対時間が否定されるとは相対時間すらも否定されるという事であり、絶対時間の復権を意味しはしない。相対時間と絶対時間を二項対立的に捕らえるのは完全な誤解である。

その上で、物理学にとって好ましい期待を残して他のある期待を放棄して時間の代替物を構成する試みが、ラッキーな事にうまくいった、という事を仮想的な構成方法とともに記述するべきです。このように導入部分の記述を行なう事で、相対性理論の全くの入り口における混乱は著しく解消されるはずです。

さらに言えば、こうした事はそもそも、非相対論的な力学の導入において行なわれるべきなのです。この種のパラドクスは世界が実際にどうなっているかという事を度外視した机上の空論ですから、その根本的な誤解は、相対性理論に限らない場合が多いのです。従って、非相対論的な力学の段階で、慎重で明解な記述を行なう事で、読者が相対性理論を学ぶ時、パラダイムの転換ではなくて、単にそれまで知らなかった実験事実に従う理論の再構築、という姿勢でとりかかれるようにする事ができるはずだし、そうするべきなのです。

ある双子のパラドクスに関する文章では、双子の問題の正しい計算を示した上で「地球とロケットの間には相対性があるのに、一方はずっと慣性系に乗っていて、他方はそうではないと勝手に仮定するのは物理学者の欺瞞だ」と主張していました。相対性原理を「Aから見るとBが動いているけれどBから見るとAが動いている」というような陳腐で当たり前の主張として誤って理解する事は、基本的には理解しようとする姿勢が欠如している人間の責任でしょう(さすがにまともな相対性理論の本で、このような記述は見た事がありません)。しかしながら忘れてはならない事は、多くの教科書において、慣性系が「見出される物」であるという視点が抜け落ちている事です。非相対性理論的な力学の教科書は、時間と空間、慣性系を、「見出される物」として、それを見出す仮想的な手順をきちんと記述するべきです。

相対性理論の導入において、何よりも強調すべき事は実験、観測によって絶対時間が存在しない事がわかったことで、時間が相対的になるとか運動するロケットの時間が遅れるとかは二の次であると書きましたが、同じ事が、量子力学についても言えます。

量子力学では、状態の記述が状態ベクトルになりました。そうであるならば、一番自然な測定とは、状態ベクトルを完全に知る事です。例えば、あらゆる状態ベクトルに一意のラベル付けをして、今の状態ベクトルのラベルを知るとか、あるいは適当な基底を決めておいてその展開係数を知るとかです。

実際には、どんな量子力学の教科書でも、そうは書かれていません。それは何故かと言えば、このような行為が、近似的にすら、(我々のこれまで知る限り)不可能であるためです。そしてその事が、測定を明確に定式化する必要性、動機ともなっています。

この事、そしてこの制限および実際の測定の過程が、他の量子力学の基本法則(特にユニタリ時間発展)により説明され得ると期待されている事、ただしそれは今の所完全には成功していない事をきちんと説明せずに、ただ実験と理論が一致するとだけ言って測定の定式化を(例えば射影測定によって)天下り的に与える事は、深刻な思考停止を招きかねません。しかし多くの、量子力学の数学的な整合性に焦点をあてた教科書では、天下り的な測定の定式化がほとんどです。

#例えば、非クローン化定理、非直交状態の識別不能性といった命題は、もしこのようなクローン化や識別が可能ならば状態ベクトルについての完全な知識を得る事が可能になるという意味で、上の本質的重要な事実の一側面を表していると言えます。つまり、クローン化とか非直交状態は証明されるべき命題である以前に、実験事実であり、(射影測定とか測定演算子による)測定の定式化の下でこれらを証明するという事は、実験事実と我々の測定の定式化との整合性を確かめているにすぎない。「証明」が実は整合性を確かめているにすぎないと言うのは、一般的に言える事ではあるが、特にこの場合この事は重要である。

これは、こうした書籍が、一旦は化学的な視点から書かれた教科書や、波動力学、行列力学時代の教科書によって学んだ、技法的な部分はある程度習得できた物の中途半端に哲学的な良く分からない記述に数多くでくわして量子力学の一貫性、整合性について確信を持つ事ができないような人々を対象として、ヒルベルト空間論に基づいた量子力学の一貫した記述を示す事を目的としているためでもあるでしょう。しかし、単独で十分な情報を持つ教科書たろうとするならば、「どうがんばっても状態ベクトルについての完全な知識を得る事ができない」という実験事実を明示的に述べるべきである。

そしてここでも、非相対論的で古典的な力学の導入において、こうした事を意識した記述が可能であるはずです。
グッドテクストブック (2005/08/01(月) 00:43:25)
私の考える良い教科書の条件とは、
1.議論の依拠する経験的(観測)事実
2.物理現象、物理法則の表現方法、記述方法の整備
3.法則間の整合性の確認(証明)
4.技術的な情報
明確に分離された上で、それぞれ過不足なく明瞭に述べられているという事です。これにより、読者は、そこで述べられている事が、少なくとも机上の空論の段階では、疑問の余地なく正しいという事を了解する事ができ、さらに、それが実際の世界を正しく記述している事を確かめるには何を実験により確かめるべきか明確に理解する事ができます。

なお、これは付加的な要求で、その教科書の位置付けにもよるのですが、少なくとも物理学の理論的でかつ基本的な部分(力学の導入など)においては、

1*.1.の経験的(観測)事実とは、実験方法の具体的詳細には触れず(触れる場合には明確に分離して)、仮想的で非現実的であって良いから、究極的には実行可能である事が明瞭な、簡潔な表現を心がけるべきである

が満たされている事も重要であると思います。これは、読者に、世界についてのどんな(検証可能な)性質を仮定しているのか、明瞭に了解させるためです。

なお、以上の要件を大体(大体、というのは、これらの要件を完全には満たしていないという意味ではなく、私が個々の記述について良い悪いを判定できる程には(というか全然ちっとも)この分野に通じていないからです)満たすような書籍として、私の知る限り、

があります。私は読んだ事がありませんが、この本には

も似たコンセプトで書かれているとの言及があります。

歴史的に言って、確かに物理学では、その理論のある部分に無批判で、余り真剣に検証されない仮定が含まれている事がありました(おそらくは今でもあるでしょう)。しかしそれは、あくまで当時知られていた現象、および実験可能な領域において確かに常に正しかったからこそ許されていたのであって、実験技術の進歩や新しい現象が知られるようになって理論が経験的(観測)事実と一致しなくなれば、速やかに、その新しい経験的(観測)事実と適合する理論を作り上げてきました。そうして否定された物がある種の固定観念から心情的に信じられていたために「不思議だ奇妙だ」という混乱が一時期生まれた事はあっても、物理学は非常に速やかにそれを解消し、それまでの理論のどの部分が「全く以って自明ではない」物であったのかを理解し、それまでの理論にせよ新しい理論にせよ、「少なくとも机上の空論の段階では正否をどうこう議論できるような物ではない単なる一理論」であり、その正否は経験的(観測)事実との整合性によって決着をつけるべき物である、という理解に達したのです。この意味で物理学は常に、「その理論は、そしてその理論によって説明する事ができた現象は、少なくとも不思議でも奇妙でもない」という理解を志し、それは実際成功を収めてきたのです。

#まあ、領域によりますが。というかこう言えるのは私がごくごく入り口にいるためでしょうが。

#さらに言えば、この仮定が依然正しい領域においてはそれまでの理論は正しいという事になり、``近似的に''正しいのだ、と注釈をつけることすらほとんど意味はない。つまり、物理学において革命的な出来事としてよく挙げられる相対性理論とか量子力学の建設は、許容される理論の範囲を広げたのであって、少なくとも机上の空論の段階ではそれまで信じられていた理論を否定して別の理論を支持するという物ではない。この事は、物理学におけるパラダイムの転換を何らかの思想上の議論に応用したいと思った時に、必ず注意しなければいけない事である。我々のこの正解がある特定の物理法則に従っているという事実をある人間が知る事によって特定の考えに至るという事はあってよいだろう(例えば物理法則が決定論的であるために人は罰せられるべきではないと考えたければ考えればよい)。しかし、この世界がその考えを支持するわけでは決してない。

確かに物理学はあるパラダイムに支配されているという側面はあるにせよ、それは経験科学として許される範囲のみに限った事であり、理論が経験的(観測)事実と一致しなくなると、物理学者はそのパラダイムを自覚し、固定観念を捨て去って、新しい理論を作ってきた。この、パラダイムを自己分析し、その支配を振り切って、出来る限り経験的(観測)事実だけを見つめようとする過程が、常に速やかに実行され、目覚しい成果に繋がってきた、という事は物理学の誇りです。

そのために、パラダイムの転換という狭い視野から科学の歴史を捉えて、科学を単にこの時代のこの社会、文化的状況における主流派の思想であると捉えるような議論、あるいは、``科学革命''という思想的な転換点を妄想し、科学のある部分を歪めて用いた議論、さらにはこうした諸々の姿勢を擁護するためにすら、不完全性定理や不確定性原理が自己言及に関する陳腐な主張に貶められて用いられる事、、等に科学者は大抵の場合強い不快感を示します。

しかし一方で、部外者に、あるいはこの分野の入門者に、物理学の理論を説明する場面になると、他ならぬ物理学者自身の手によって、このようなパラダイムの転換が演出されてきました。

例えば、私達は、電車に乗って発車するのを待ちながら考え事をしていて、ふと窓の外を見ると既に電車が動き出していて驚く、という事があります。

つまり、大抵の人間にとって(少なくとも私にとって)、ガリレイの相対性原理は、直感的には、全然正しくないのです。そしてこの例から分かるようにガリレイの相対性原理は確かに私達の日常的経験には反しません。しかし、日常的な経験から、どんな場合にもガリレイの相対性原理が成り立っているとほんの少しでも確信できる人はいないでしょう。ガリレイの相対性原理は、実験、観察、観測による厳密な検証を待たなければ直感とか日常的経験とかによって直ちに正当化できるような代物ではないのです。

#この感覚と実際の世界との齟齬が、大した速度を出しているわけでもなく、大きな加速度をかけているだけのジェットコースターに私達がスリルを感じる理由です。

ところが多くの伝統的な力学教育においては、ガリレイの相対性原理が、私達の直感に良く一致する主張であるかのように扱って、相対性理論に至ってそれが否定される事をもったいぶって匂わせる事はあっても、ほとんど自明の事実として導入します。ほとんどの生徒、学生にとって、ガリレイの相対性原理は、実験事実を待たなければ正しいとも誤っているとも判定できないにも関わらず、このような教育によって、この時点で、完全に人為的に、この固定観念ができあがるのです。そして、それは単に、相対性理論の導入を劇的にするためだけに行われ続けているのです。

物理学は、革命的な転換を経験する度に、どこに勝手な仮定があったのかについて真摯に自己分析してきました。そうして、新しい理論がそれまでの理論と何が違うのかを明瞭に理解し、その新しい理論は「少なくとも不思議でも奇妙でもない」という理解に達するよう努力してきました。当然それは、古い方の理論にも反映されてしかるべきなのです。古典力学の教科書は、読者が相対性理論、あるいは量子力学に繋がるような実験結果についての知識を得ると直ちに、どの部分が変更を受けるのか了解できるような書き方をされるべきです。

そもそも数学的な技術が成熟しているかどうかという点を除けば、物理学の理論の違いというのは、新旧でも、偉い偉くないでも、難易でもなく、適用領域の違いであるはずです。学習者が歴史的な順序をなぞる必要性は数学的な技術という要素以外にあるはずもないのですが、現実には、多くの要素が絡んで来て、歴史的な順序をなぞってパラダイムの転換を受け入れるという学習姿勢に学習者を引き込みやすい状況が作られてしまっています。このような状況は速やかに修正されるべきです。
プロブレム (2005/07/30(土) 23:10:00)
明らかに問題は、単に誰かが何かを理解していないという事ではありません。

自然科学者の多くは、哲学者や社会科学者達が科学用語を正しく理解せずに使ったり、科学の方法論を特定の主張を支持するために歪めて用いたりしているとか、科学の方法論をきちんと理解する事なくパラダイム・シフトという構造にばかり着目して科学を単なる一思想であるかのように扱って、自然科学よりも崇高な議論を行っているつもりになっていやがる、と非難しますが、同時にそういった事が免罪符であるかのような姿勢を半ばとって、こうした多分野における議論に興味を示さなかったり、科学の方法論の分析や科学の社会的役割、科学の倫理といった問題についてまで他分野の人間による議論を嫌って、社会的な影響力の大きい立場から到底洗練されているとは言いがたい認識を示したりします。

一方、哲学や社会科学分野の多くの人々は、自然科学者は彼らが科学用語や、科学っぽい物の言い方をした時だけ鬼の首をとったかのように間違いをあげつらう癖に、自分達が行っているどんな議論にもほとんど興味を示さず、それどころか、科学の社会的役割、科学の倫理といった、例え自然科学という学門分野が個々の研究者に要求はしないとしても、彼らの社会的立場から当然興味を向けて真摯に考えを巡らせるべき領域についてすら、あるいは科学の方法をより洗練させ得る科学の方法論の吟味といった事についてすら、「そんな事は下々の者に任せておけ」といった態度をとる、と非難しながら、同時に、自分達がしばしば引用、使用するような科学で用いられる用語、概念、方法といった物についてすら、正しく理解しようとする姿勢を見せません。

#ここでは特にこの対立構造に焦点をあてているのでいささか視野の狭い限定的な書き方になっているが、もちろん同様の構造は至るところにある。

ここにある対立の溝は、誰かが何かを誤って理解している、などという単純な捉え方では済まされないほどに、深い。そしてこの対立の構造が停滞を生んでいるという点こそが問題なのです。

このような観点から、状況を正常化するためには、他分野を理解する姿勢こそが重要であるという事になりますが、前回延べたように、その時最も重要なのは、他分野について学ぶ事よりも、自分が特に深く関わっている特定の分野について、それがどのような論理構造を持っていて、何を言っていて何を言っていないなのかを正確に理解する事なのです。

それなしに他分野を理解したつもりになっても、それは、単に異なる立場を受容したというだけにすぎず、それは、盲目的に拒絶する事の裏返しにすぎません。

一方このような経験を経ている人間は、他分野について曖昧にしか理解していなくとも、その限定的な知識、理解の下で自分が何を主張できて何を主張できないのかを明らかにする事ができるでしょうから、その範囲内で議論に参加する事ができます。場合によっては、彼が他のある分野について深い知識と理解を持っているということが、彼がその分野について曖昧な知識と理解しか持っていないという事を補って余りあるということにもなるでしょう。またこのような人間は、自分に足りないのはどんな事であるのか明確に知る事が可能で、必要に応じて先に進む事ができます。

さらに、例えばこの一連の文章の発端となった

知人の立花隆の講義についての問題提起
講義のWEBサイト
講義録1
講義録2

のようなケースに遭遇した場合、もちろんこの特定の人間の特定の誤った理解について批判するという事も重要ですが、同時に、自然科学の論理構造、方法論、そして自然科学が何を言っていて何を言っていないのかを正確に理解し、さらに人がそのような事を理解する障害をできるかぎり取り除く努力が必要です。そして、議論であるべき物をアイデンティティの対立に変容させてしまわないためにも、こちらにこそより注力すべきです(もちろんどちらも、そもそも完了するような性質のものではありませんから、一方が終わるまで他方をしては行けないというわけではありません)。

さらに言えば、立花隆という人間について最大限好意的に解釈した場合、彼がジャーナリストであるという点は無視できない。実際、立花隆が言っている「科学に関する変な事」は哲学とか社会科学で頻繁に目にする物ですし、さらにハイゼンベルグなどの量子力学の建設に大きく貢献した人々によるコペンハーゲン解釈も含まれています。そもそも、立花隆が講義のこの部分で語ろうとしていた「量子力学がもたらすパラダイムの転換」からしてそうです。こうした事からも、立花隆をだしにして一般的に誤解されやすい科学上の概念に関する理解を図るといった事ならばともかく、立花隆という``大物''の活動によってこのような科学に関する不理解が自分の目の届く範囲に入ってきたからその部分だけを批判するというのは正しい姿勢ではないでしょう。

#もっとも立花隆は大部分、自身一人の思想家として振舞っている事もまた無視できませんが

さて、こうした事から言って、物理学の教科書が書かれる時、細心の注意が必要という事になるのは当然の事ですが、学生という立場から言わせてもらえば、物理学の教科書という奴は、有名で定評である物でさえ、酷い。酷すぎる。現代社会においてなまじ大きな成功を収めているだけに余りに無邪気な姿勢が多すぎる。
(続く)
ストラクチャ (2005/07/28(木) 18:42:15)
学問分野は扱う領域と方法論によって分けられると言って良いでしょう。そして扱う領域による分類は、歴史的、伝統的な区分という性格が強く、必ずしも絶対的な物ではないでしょう。

一方、方法論という側面に関して言えば、どんな学問分野も必ず、真実のある部分を諦める事で、他の部分が得られると期待する、という論理構造を持ちます

究極の真実などという代物は、おいそれと私たち人間が至る事のできるものではないでしょう。しかしながら各学問分野は、そこで諦める事をせず、私達の真実に対する期待をある範囲に制限する事で、その下で真実の追究が可能になるだろうと期待できるようにする、という巧妙な方法論をそれぞれに見出してきたのです。

この意味で、学問分野が何をでき(何について言及でき)、何ができないか(何について言及できないか)は、その学問分野が扱えない部分こそが規定するのです。扱えない部分の存在こそが、その学問分野がある部分を扱えるようにしているのです。

自分が特に関わっている分野の能力を課題評価する、自分が余り明るくない分野を自分が理解できる範囲に矮小化して批判する、あるいは無理に歪めて自分達の分野にとりこむ、といった事は全てこの点を理解していない事に原因があるのです。

ところで、当然の事ですが、一人の人間が一つの学問分野にしか関わってはいけない、という事はありません。それどころかそれは多くの場合推奨されるでしょう。そして、そのように守備範囲を広く取る場合、あらゆる事項を、徹底的に、完璧に、疑問の余地のない形で理解する、というわけにはいきません。

しかしながら、広い視野を持っていろいろな事を学ぼう!とただ無邪気に唱える事には問題があります。このような主張が行われる場合、しばしば、学んだ事を自分の中で消化、理解するという事が軽視され、学問を自己の外部にある物と捉えて単に誰が何と言っているのかを知る事のみが重要視されがちです。このような場合、多くの分野から様様な事柄、主張を学ぶという事は、様様な陣営の主張を第三者的な視点から学んで、そのどれについても思考を巡らす事なく単に受用する、言ってみれば``大人の姿勢''に繋がります。ここでは、何が何でも真実に至ろうとする``大人気ない姿勢''は失われてしまいます。

#予断ですが、日本において、そして自然科学に関して限定すれば、自然科学を西洋文化と捉える感覚が未だに残っていてこのような傾向を後押ししているように感じます。

初めから単に教養的な興味から物事を学ぶのならば(つまり多くの人にとって)それでも良いでしょう。しかし、もしあなたが本当に真実に至ろうとする熱望を持っているのならば、どんな分野の、さらにどんな小さな一分野でも構わないので、何かある特定の事項について、完璧で、疑問の余地のない形でそれが正確に何を意味し、何を意味しないか、自分の内部で完結した理解にまで持っていくという経験が必要です。自分の理解が間違っているということはいつだってあるでしょう。しかしながら、誰が言っている、どの本に書いてあるという事とは関係なしに、自分自身が確信を持つ事ができないならば、それに真実の何がしかを期待するという事が、一体どうして可能でしょうか?このような経験こそが真実に仕えるという事を裏付けるのです。

そして重要な事は、このような経験は(多いにこした事はありませんが)一回で十分だということです。このような経験は、(明示的なものである必要はありませんが)真実のある部分を諦める事で、他の部分が得られると期待するというその学問分野の構造の理解なしには実現しません。

そして、ある学問分野のこのような構造を理解した人間にとって、どんな学門分野も、そこでなされる特定の主張や方法論についての個別の批判、反論は当然有り得るにせよ、学門分野とは、その全体が一般論によってまとめて否定されるようなものではないという事が直ちに了解されるはずです。

#真実のどの部分を諦めてどの部分を得る事が望ましいのか、という点についての議論は有り得ますが、これは、否定、非難ではなく、議論なのです。

こうした経験を経ている人間ならば、ここまで問題にしてきたような類の問題がおきることはありません。このような人間は、何らかの主張に触れた時に、盲信するか拒絶するかの二択を迫られるという事にはならないからです。

その代わりに、どのような学門分野も、分野自体としては正当性を云々できるようなものではない、独特の論理構造を持っている、という確信の下で、さらに、どんな主張もほとんどの場合に全く考慮に値しないような、てんで話しにならない思考や議論の下でなされているという事はないだろうと期待できます。そしてそのような確信と期待の下で、ある部分についてはとりあえず本に書いてある、あるいは人が言っている事をそのまま受け入れる、他のある部分については必要や興味に応じてある(必ずしも、完璧でも、疑問の余地のないものでもない)一定のレベルまで理解しようとする、さらに議論に参加するといった事が可能になります。これは決して、人が言っている事、本に書いてある事の盲信ではありません。いざとなれば完全な理解に達する事ができる、という確信の下で、単に人の寿命は有限であるために、深く関わる部分とそうでない部分とを選択しているのです。このような確信の下で初めて、参照と引用という仕組みによって学問がはぐくんできた膨大な知識と思想の体系が正常に機能するのです。

#予断ですが、私は、人類最大の発明の名を冠すべきは「参照」あるいは「引用」であると考えます。明らかにこの発明によって、人は、人一人(蟹の顔文字じゃないよ)の能力を超えたのです。

学究の徒であるために要求される思想や信条はほとんどありません。真実に仕えるという姿勢のみが学究の徒であることの唯一の条件です。思想、信条、立場、専門分野が全く異なっていても、真実を追究する姿勢さえ共有されていれば、その共通の目的意識の下で、例え共通の結論に至る事はほとんど絶望的であっても、正常に議論を行う事ができます。そしてそれこそが学問なのです。

さて、こうした観点から言って、私が注文をつけたいのが、物理学の、特に教科書に分類されるような解説書のありかたについてです。

#ずっと有り得ないくらいの大上段の文章を書いてきましたが、これが一番書きたい事なのでもう少し続きます。
第二の点について言えば、UFOキョージュこと大槻教授を例に挙げれば十分でしょう。

UFOに関して、あらゆる学問の共通の姿勢-真実の追究-からいって問題になるのは、多くのUFO信奉者達自身が、各々のUFOの証拠とされる物について、その真偽にほとんど興味を示さない点です。端からUFOを信じないような人達よりも、彼らにとってこそ、その真偽は重要であるはずにも関わらず。

たとえUFOが存在したとしても、それは、あらゆるUFOの証拠として提出された物の全てが本当にUFOと関連があるという事を意味しはしません。UFOの存在を世に知らしめたいと彼らが本当に願うのならば、誰かが興味本位で作った合成写真を排除し、ある程度信憑性が認められる証拠のみを世に問うべきなのです。せっかく本当にUFOが存在するのに、誰かが作った下らない合成写真によって彼らの主張が不当に否定されるという事態は、他ならぬ彼ら自身にとって問題となるはずです。それにも関わらず彼らはしばしば、私が片手間に作った合成写真に対してすら擁護しようとする責任感を示すのです。

こうした傾向は、彼らが、UFOが存在する事を真摯に明らかにしようとしているのではなく、単にUFO皇帝派というアイデンティティを欲しているために生まれます。彼らのほとんどは、UFOが本当に存在するか否かなどという事はどうでもよいことなのです。実際、本物のUFO研究家からすれば、こうした人々の存在は、怒りの対象でしょう。

さて、自然科学に関して言えばこの学問分野がUFOに関して言う事は、これまでの所疑問の余地のないUFOの証拠は見つかっていない、という事だけです。

学問分野とは、対象とする領域および方法論によって特徴付けられるのです。主張や思想によってではありません。物理学という学問分野自体がUFOを否定するという事はあり得ません。

ところが大槻教授は、特定の、例えばこれがUFOの写真だとする主張に反論するとか、その写真に写っているのはUFO以外のこれこれだ、と主張したりするのではなく、UFOは存在しない、と一般的な主張を行います。そしてそれが科学の姿勢であると言うのです。この姿勢は、単に主張が裏返しになっただけで、UFO信奉者と何ら変わりがありません。

#それどころか、通俗的な意味での科学的、非科学的という物事の分類においても、霊魂とか運とかならともかく、UFOが非科学に分類されるとは、私にはちょっと思えません。もし社会的にそのような感覚が広まっているならば、その責はこうした人々にあります。

この手の、自然科学を自分のアイデンティティの確立に利用する人々によって、自然科学は、一つの立場、陣営に貶められてしまいます。残念な事に、特別な評価に値するような業績を挙げている人の中にもこの手合いが数多くいますし、さらに大衆的メディアが要求する科学者像に一致し、メディアは彼らのアイデンティティの確立に一役買うために、メディアによく露出し、強い影響力を持ちます。

現代社会は、科学技術の大きな基盤の上に成り立っていますから、科学の方法論において立証されていない類の物事を信じる事が社会的に好ましくない、あるいは何らかの非効率を生む(科学で立証されていない=現代社会が利用してこなかった)という考えは有り得ます。例えばなんの変哲もない壷を100万円で売りつける悪徳商法の類をそれによって防ぐ事ができるかもしれません。しかしそれは飽くまで政治的とも言ってよい思想であり、自然科学がそのような思想を要求するわけではありません。自然科学に携わる人間が、そのような思想を持ったり、その動機としてその人間が自然科学に携わっている事が何らかの責任感を生じた事があっても良いのですが、そうした人間が勝手に科学を代表して喋るとしたらそれは問題です。

私は、アイデンティティとは行動、人生の結果として得られる物であって、それ自体を行動原理にすべきではないと思っています。ただし、ここでの議論にこの思想は直接は関係なく、私が主張したいのは、アイデンティティの確立を目指す行動姿勢はしばしば真実に仕える誠実な姿勢と相反し、そうした場合に前者が優先されるという事は、真実を追究する学問の上ではあってはならないということです。

アイデンティティの確立を目指してある特定の立場をとるならば、必ず、それ以外の立場の存在を必要とします。しかも第三者的な立場の人間は、誰かが特定の立場を押し付けるなどの不愉快な関わり方をしてこない限り、どの立場も同様に受用するという``大人の対応''をとります。当事者ですら、反対陣営を必要とする事から、しばしばそのような妥協点、落とし所に落ち着いて満足してしまいます。

最後に、第三の点については、これは第一、第二とわける意味があまりなかったかもしれませんが、特に、少なからない物理学者が、その深く関わっている分野においてすら、ある主張が本当に正しいか、そしてそれが正しいとは正確に何を意味し何を意味しないか、についての興味を失い、単に仕事をしているだけの状態に陥っている事をあげておきましょう。もちろんこれは、物理学に限っての事ではありませんが。
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