RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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トゥドゥー (2005/03/05(土) 23:48:49)
明後日が試験なんで明日勉強しなければいけない事をリストアップ

解析力学・量子力学&量子化け学
両方合わせて調和振動子ハミルトニアンの固有状態の導き方をやっておいて、後水素原子波動関数に関して定性的な事やっておけばどうにかなりそう?数理的な所はぶっつけで。。。でも運動量演算子の自己共役性の証明とかって意外に面倒なんだよな、確か。。。

電磁気学
えっと何を知っておくべきかも知らないぞ。。。特殊相対性理論の粒子を時空図上の曲線として扱っている段階までならどうにかなるだろうけど。。。電磁気はどうしよう?特殊相対性理論的なマクスウェルの方程式の表示と、電磁場の変換だけ調べておけばどうにかなるかな?
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タジュージンカク (2005/03/05(土) 03:35:04)
昨日書いた事との関連で一つ興味深い話。

多重人格という精神病はこれだけ良く知られるようになってなお、専門家ですらその存在を疑う人がまだ存在する。この病気の存在を疑わないにせよ、とにかく非常に奇妙な現象が存在している事は確からしい。

それはこの精神病が、始めにこの症例が報告された地点から、まるで伝染病のように広がっていった事だ。このためこの精神病は医者達の幻想の産物であるとか、患者の演技ではないのかといった点で未だに疑いを持たれているのだ。

しかし同時にこの精神病が実際に存在している事もどうやら疑う余地もなさそうで、それ故に専門家達は首をひねっているらしい。もちろん、日本でいうきつね憑きのように実はこの精神病との関連が考えられるような現象は世界各地に昔からあったのだが、多重人格という精神病として紹介されるようになってから多重人格者は爆発的に増加した。しかし演技であるとか医者の思い込みであると認められるのはごく一部で、被験者によって到底コントロールできないような多くの精神的なテストが彼らの持つ複数の人格が、実際に異なる人格である事を示すのだという。

結局この話の真相はこういうことなのだろう。

すなわち、人は気合で多重人格になれるという事だ。

恐らく人の潜在能力は僕らが思っているよりはるかに強力なのだろう。ただ、普通に生きていれば「多重人格になる」事など思いもよらない。医学が多重人格を扱うようになれば人がその可能性に触れる機会は多くなる。そうしてこの可能性に気づいてしまえば、一部の人間は演技などではなく真に多重人格になってしまえるのだ。
少年による殺人事件の増加に対する理由付けとして「暴力描写が頻出し死んでも生き返るゲームや漫画」によって死の重大性を理解できていないという主張がある。この主張はいろいろ批判されているけれど、少し毛色の変わった問題提起をしてみたい。

それは、「人は死んでも生き返る」と思っている人間は、わざわざ人を殺したりしないということ。人を殺すという行為の目的は、人におよそ最大限のダメージを与える事なのだから。

確かに死というものを理解していないために無邪気に人を殺してしまうというケースはあり得るだろうが、それにはそうとう特殊な環境が必要だ。死の意味を軽くする類の描写にさらされる事がそうした環境の形成に一役買うという可能性は否定はできないが、ともかく現段階ではレアなケースであるはずだ(これは本来の意味での確信犯という奴だ)。また、加減がわからずにやりすぎて死に至らしめるという事故性の強いケースも暴力描写の寄与を否定できないだろう。しかし、やはりこれもレアなケースだ。意図的に行われる殺人は基本的に激しい敵意の下で行われるか(保険金目的のように)明確な打算の下で行われるかのどちらかだ。いずれにせよ殺人という物は極端な行為であって、少年が主体であるからといってそこにどうにかして日常性を見出そうとするのは誤りである。

#京極夏彦の「おんもら鬼の瑕」はこのような特殊な環境を実際に構築しようとした小説なわけですが、不自然さ、人為性が色濃く残ってしまうという結果に終わりました。ってネタバレ?まあ関口先生にプロローグで見抜かれる仕掛けは仕掛けとは言わないということで。

確かに、暴力描写が殺人に対する精神的な障壁を引き下げているのは確かであると思う。しかしそれは、こうした描写にさらされると死の意味を軽んじるようになるということでは決してないのだ。それどころか、大抵の場合残酷性が増すほど暴力描写は問題視されるけれど、残酷性を増すという事は暴力によるダメージを強調するという事だ。もちろん、残酷性が増すほど暴力をふるわれた人間が生き返る事はなくなる。

実際に起こっている事は「それまで気づかなかった選択肢の存在に気づく」ということだ。

人が他者に対して激しい敵意を憶えた時、殺人という行為に至らない最大の理由は道徳でも倫理でもない。もちろんそれらは理由の一つではあるのだけれど、重要な事は、生まれたときには既に形成されていた社会的な道徳観や倫理、そして周りの人間の一般的な言動にさらされて人生を送ってきた人間は、単に「殺人という選択肢に思い至らない」という事だ。

僕らはあらゆる時点で自由意志に従って行動を決定するけれど、その際可能な行動のうちのほとんどの可能性を初めから排除し、非常に限られた範囲で行動を選択する。殺人はまさにこの排除されている選択肢だ。暴力描写はこの選択肢の存在に気づかせてしまう

特定の行為を唆すならばともかく、単に可能性を提示するだけならばそれは悪とは言えない。むしろ、選択に関する主体的な自由が存在する限り、可能性が増える事は「最悪でも0でマイナスにはならない」出来事だ。むしろ、殺人という選択肢に気づく前は、決して死の重大性を正しく理解して行動していたとは言えず、殺人という選択肢が目の前に現れて初めて人は暴力と死について思考する必要性に直面するとも言える。

しかしそうなった時に、状況によっては人は容易に殺人を選択してしまう。それが人の弱さという物なのだろう。そしてこの事実こそが人々の不安を掻き立てるのだろう。この事実に向き合いたくないという感情こそが、少年犯罪に分かり易い理由付けを求めるのだ。

なお、「殺人という選択肢という選択肢の存在に気づかせる」という点で最も影響力の大きいのはゲームでも漫画でもなく、犯罪報道そのものである。特に少年犯罪の報道自体が、無意識に「犯罪は大人の物」と見なしていた少年達にその可能性を提供した。そうなれば、「0」は「一定割合」とならざるを得ないのである。
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