RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
200506 << 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >> 200508
スポンサーサイト (--/--/--(--) --:--:--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
テクストブック (2005/07/31(日) 22:26:42)
以前にも書いたように、多くの教科書では、いくつかの(何故だか多くの場合``三つの'')基本法則から出発して演繹的に議論を進めていくという``伝統的な''スタイルをとります。僕の知る範囲では、非相対論的古典(ニュートン)力学、相対性理論、熱力学では、「猿でも猫でも河童でも分かる」といった``易しさ''を売りにして読者を「分かったつもり」にさせる事だけに注力している類の書籍はほぼ必ずこの形をとり、評価が高く伝統的に参照されてきたような教科書でもこの形が多いようです。

#余談であるが、どうして日本の専門書は「よくわかる」「納得する」「三日で分かる」「入門」をタイトルに付けたがるのだろうか。海外の書籍を見ているとそちらはそちらで、「一体何冊``Quantum Mechanics''を書けば気が済むんだ!」と言いたくなるが、日本語の教科書を作る人は(タイトルに関しては多かれ少なかれ出版社、編集者も関わっていると思うのでそうした人たちも含めて)もう少しプライドを持ってタイトルくらい付けて欲しい。読者を分かったつもりにさせる所に妥協しないで、誠実な姿勢で書かれた教科書や分野名がそのままタイトルとなっている外国語の書籍の邦訳でさせ(おそらく出版社の意向で)このようなタイトルとなっている事が多い。

そうでない場合で、読者を分かったつもりにさせる所に妥協しない誠実な姿勢の下で書かれたような教科書の多くでは、あろうことか、物理的概念を数学的な記述によって``定義''します。量子力学の数学的な部分に重きを置いた教科書にはこのタイプが多いように思います。

一見、それらの数学的な記述にわりあてられた名前には物理的、経験的な意味づけがあるように思えてしまうのですが、それは全くの錯覚で、少なくともその文章の文脈においては、それらは単なるラベルにすぎないのです。このような教科書では、議論の厳密性には細心の注意が払われているため、慎重に議論を追う読者はその文章中で述べられている事項に関してはその正当性を確信する事ができる(あるいは誤っている点を明らかにして批判できる)し、曖昧な理解を求めている読者も、いざとなれば注意深く議論を追えるという確信の下で証明や計算の詳細を適宜飛ばして結果のみを参照できます。しかし読者はこのような形式の教科書によっては、その記述が如何なる点で実際の世界と結びついているのか理解する事ができません。

スポンサーサイト
プロブレム (2005/07/30(土) 23:10:00)
明らかに問題は、単に誰かが何かを理解していないという事ではありません。

自然科学者の多くは、哲学者や社会科学者達が科学用語を正しく理解せずに使ったり、科学の方法論を特定の主張を支持するために歪めて用いたりしているとか、科学の方法論をきちんと理解する事なくパラダイム・シフトという構造にばかり着目して科学を単なる一思想であるかのように扱って、自然科学よりも崇高な議論を行っているつもりになっていやがる、と非難しますが、同時にそういった事が免罪符であるかのような姿勢を半ばとって、こうした多分野における議論に興味を示さなかったり、科学の方法論の分析や科学の社会的役割、科学の倫理といった問題についてまで他分野の人間による議論を嫌って、社会的な影響力の大きい立場から到底洗練されているとは言いがたい認識を示したりします。

一方、哲学や社会科学分野の多くの人々は、自然科学者は彼らが科学用語や、科学っぽい物の言い方をした時だけ鬼の首をとったかのように間違いをあげつらう癖に、自分達が行っているどんな議論にもほとんど興味を示さず、それどころか、科学の社会的役割、科学の倫理といった、例え自然科学という学門分野が個々の研究者に要求はしないとしても、彼らの社会的立場から当然興味を向けて真摯に考えを巡らせるべき領域についてすら、あるいは科学の方法をより洗練させ得る科学の方法論の吟味といった事についてすら、「そんな事は下々の者に任せておけ」といった態度をとる、と非難しながら、同時に、自分達がしばしば引用、使用するような科学で用いられる用語、概念、方法といった物についてすら、正しく理解しようとする姿勢を見せません。

#ここでは特にこの対立構造に焦点をあてているのでいささか視野の狭い限定的な書き方になっているが、もちろん同様の構造は至るところにある。

ここにある対立の溝は、誰かが何かを誤って理解している、などという単純な捉え方では済まされないほどに、深い。そしてこの対立の構造が停滞を生んでいるという点こそが問題なのです。

このような観点から、状況を正常化するためには、他分野を理解する姿勢こそが重要であるという事になりますが、前回延べたように、その時最も重要なのは、他分野について学ぶ事よりも、自分が特に深く関わっている特定の分野について、それがどのような論理構造を持っていて、何を言っていて何を言っていないなのかを正確に理解する事なのです。

それなしに他分野を理解したつもりになっても、それは、単に異なる立場を受容したというだけにすぎず、それは、盲目的に拒絶する事の裏返しにすぎません。

一方このような経験を経ている人間は、他分野について曖昧にしか理解していなくとも、その限定的な知識、理解の下で自分が何を主張できて何を主張できないのかを明らかにする事ができるでしょうから、その範囲内で議論に参加する事ができます。場合によっては、彼が他のある分野について深い知識と理解を持っているということが、彼がその分野について曖昧な知識と理解しか持っていないという事を補って余りあるということにもなるでしょう。またこのような人間は、自分に足りないのはどんな事であるのか明確に知る事が可能で、必要に応じて先に進む事ができます。

さらに、例えばこの一連の文章の発端となった

知人の立花隆の講義についての問題提起
講義のWEBサイト
講義録1
講義録2

のようなケースに遭遇した場合、もちろんこの特定の人間の特定の誤った理解について批判するという事も重要ですが、同時に、自然科学の論理構造、方法論、そして自然科学が何を言っていて何を言っていないのかを正確に理解し、さらに人がそのような事を理解する障害をできるかぎり取り除く努力が必要です。そして、議論であるべき物をアイデンティティの対立に変容させてしまわないためにも、こちらにこそより注力すべきです(もちろんどちらも、そもそも完了するような性質のものではありませんから、一方が終わるまで他方をしては行けないというわけではありません)。

さらに言えば、立花隆という人間について最大限好意的に解釈した場合、彼がジャーナリストであるという点は無視できない。実際、立花隆が言っている「科学に関する変な事」は哲学とか社会科学で頻繁に目にする物ですし、さらにハイゼンベルグなどの量子力学の建設に大きく貢献した人々によるコペンハーゲン解釈も含まれています。そもそも、立花隆が講義のこの部分で語ろうとしていた「量子力学がもたらすパラダイムの転換」からしてそうです。こうした事からも、立花隆をだしにして一般的に誤解されやすい科学上の概念に関する理解を図るといった事ならばともかく、立花隆という``大物''の活動によってこのような科学に関する不理解が自分の目の届く範囲に入ってきたからその部分だけを批判するというのは正しい姿勢ではないでしょう。

#もっとも立花隆は大部分、自身一人の思想家として振舞っている事もまた無視できませんが

さて、こうした事から言って、物理学の教科書が書かれる時、細心の注意が必要という事になるのは当然の事ですが、学生という立場から言わせてもらえば、物理学の教科書という奴は、有名で定評である物でさえ、酷い。酷すぎる。現代社会においてなまじ大きな成功を収めているだけに余りに無邪気な姿勢が多すぎる。
(続く)
エアーコンディショナー (2005/07/30(土) 03:38:07)
僕の部屋についているエアコンは、冷房、暖房の切り替えができるのだが、その温度の設定範囲が完全にかぶっている。このため、初めて冷房を動かす時なんかには、気づかずに暖房にしていて、いくら温度を低く設定して一向に室温が下がらないという事になったりする。

これは明らかにインタフェースがおかしい。一体、空調機器に温度以外の設定項目が何故必要なのだろうか。ついでに言えば、風量といった設定項目もおかしくて、お前は扇風機か、と言いたくなる。
ビオランテ (2005/07/30(土) 02:32:25)
ゴジラvs.ビオランテおもしれー。話には聞いてたけど。ビオランテの軟らかさがリアリティを感じさせる。気ぐるみ怪獣って闘ってる時の見た目の変化がごまかされる場合が多いけれど。
ストラクチャ (2005/07/28(木) 18:42:15)
学問分野は扱う領域と方法論によって分けられると言って良いでしょう。そして扱う領域による分類は、歴史的、伝統的な区分という性格が強く、必ずしも絶対的な物ではないでしょう。

一方、方法論という側面に関して言えば、どんな学問分野も必ず、真実のある部分を諦める事で、他の部分が得られると期待する、という論理構造を持ちます

究極の真実などという代物は、おいそれと私たち人間が至る事のできるものではないでしょう。しかしながら各学問分野は、そこで諦める事をせず、私達の真実に対する期待をある範囲に制限する事で、その下で真実の追究が可能になるだろうと期待できるようにする、という巧妙な方法論をそれぞれに見出してきたのです。

この意味で、学問分野が何をでき(何について言及でき)、何ができないか(何について言及できないか)は、その学問分野が扱えない部分こそが規定するのです。扱えない部分の存在こそが、その学問分野がある部分を扱えるようにしているのです。

自分が特に関わっている分野の能力を課題評価する、自分が余り明るくない分野を自分が理解できる範囲に矮小化して批判する、あるいは無理に歪めて自分達の分野にとりこむ、といった事は全てこの点を理解していない事に原因があるのです。

ところで、当然の事ですが、一人の人間が一つの学問分野にしか関わってはいけない、という事はありません。それどころかそれは多くの場合推奨されるでしょう。そして、そのように守備範囲を広く取る場合、あらゆる事項を、徹底的に、完璧に、疑問の余地のない形で理解する、というわけにはいきません。

しかしながら、広い視野を持っていろいろな事を学ぼう!とただ無邪気に唱える事には問題があります。このような主張が行われる場合、しばしば、学んだ事を自分の中で消化、理解するという事が軽視され、学問を自己の外部にある物と捉えて単に誰が何と言っているのかを知る事のみが重要視されがちです。このような場合、多くの分野から様様な事柄、主張を学ぶという事は、様様な陣営の主張を第三者的な視点から学んで、そのどれについても思考を巡らす事なく単に受用する、言ってみれば``大人の姿勢''に繋がります。ここでは、何が何でも真実に至ろうとする``大人気ない姿勢''は失われてしまいます。

#予断ですが、日本において、そして自然科学に関して限定すれば、自然科学を西洋文化と捉える感覚が未だに残っていてこのような傾向を後押ししているように感じます。

初めから単に教養的な興味から物事を学ぶのならば(つまり多くの人にとって)それでも良いでしょう。しかし、もしあなたが本当に真実に至ろうとする熱望を持っているのならば、どんな分野の、さらにどんな小さな一分野でも構わないので、何かある特定の事項について、完璧で、疑問の余地のない形でそれが正確に何を意味し、何を意味しないか、自分の内部で完結した理解にまで持っていくという経験が必要です。自分の理解が間違っているということはいつだってあるでしょう。しかしながら、誰が言っている、どの本に書いてあるという事とは関係なしに、自分自身が確信を持つ事ができないならば、それに真実の何がしかを期待するという事が、一体どうして可能でしょうか?このような経験こそが真実に仕えるという事を裏付けるのです。

そして重要な事は、このような経験は(多いにこした事はありませんが)一回で十分だということです。このような経験は、(明示的なものである必要はありませんが)真実のある部分を諦める事で、他の部分が得られると期待するというその学問分野の構造の理解なしには実現しません。

そして、ある学問分野のこのような構造を理解した人間にとって、どんな学門分野も、そこでなされる特定の主張や方法論についての個別の批判、反論は当然有り得るにせよ、学門分野とは、その全体が一般論によってまとめて否定されるようなものではないという事が直ちに了解されるはずです。

#真実のどの部分を諦めてどの部分を得る事が望ましいのか、という点についての議論は有り得ますが、これは、否定、非難ではなく、議論なのです。

こうした経験を経ている人間ならば、ここまで問題にしてきたような類の問題がおきることはありません。このような人間は、何らかの主張に触れた時に、盲信するか拒絶するかの二択を迫られるという事にはならないからです。

その代わりに、どのような学門分野も、分野自体としては正当性を云々できるようなものではない、独特の論理構造を持っている、という確信の下で、さらに、どんな主張もほとんどの場合に全く考慮に値しないような、てんで話しにならない思考や議論の下でなされているという事はないだろうと期待できます。そしてそのような確信と期待の下で、ある部分についてはとりあえず本に書いてある、あるいは人が言っている事をそのまま受け入れる、他のある部分については必要や興味に応じてある(必ずしも、完璧でも、疑問の余地のないものでもない)一定のレベルまで理解しようとする、さらに議論に参加するといった事が可能になります。これは決して、人が言っている事、本に書いてある事の盲信ではありません。いざとなれば完全な理解に達する事ができる、という確信の下で、単に人の寿命は有限であるために、深く関わる部分とそうでない部分とを選択しているのです。このような確信の下で初めて、参照と引用という仕組みによって学問がはぐくんできた膨大な知識と思想の体系が正常に機能するのです。

#予断ですが、私は、人類最大の発明の名を冠すべきは「参照」あるいは「引用」であると考えます。明らかにこの発明によって、人は、人一人(蟹の顔文字じゃないよ)の能力を超えたのです。

学究の徒であるために要求される思想や信条はほとんどありません。真実に仕えるという姿勢のみが学究の徒であることの唯一の条件です。思想、信条、立場、専門分野が全く異なっていても、真実を追究する姿勢さえ共有されていれば、その共通の目的意識の下で、例え共通の結論に至る事はほとんど絶望的であっても、正常に議論を行う事ができます。そしてそれこそが学問なのです。

さて、こうした観点から言って、私が注文をつけたいのが、物理学の、特に教科書に分類されるような解説書のありかたについてです。

#ずっと有り得ないくらいの大上段の文章を書いてきましたが、これが一番書きたい事なのでもう少し続きます。
第二の点について言えば、UFOキョージュこと大槻教授を例に挙げれば十分でしょう。

UFOに関して、あらゆる学問の共通の姿勢-真実の追究-からいって問題になるのは、多くのUFO信奉者達自身が、各々のUFOの証拠とされる物について、その真偽にほとんど興味を示さない点です。端からUFOを信じないような人達よりも、彼らにとってこそ、その真偽は重要であるはずにも関わらず。

たとえUFOが存在したとしても、それは、あらゆるUFOの証拠として提出された物の全てが本当にUFOと関連があるという事を意味しはしません。UFOの存在を世に知らしめたいと彼らが本当に願うのならば、誰かが興味本位で作った合成写真を排除し、ある程度信憑性が認められる証拠のみを世に問うべきなのです。せっかく本当にUFOが存在するのに、誰かが作った下らない合成写真によって彼らの主張が不当に否定されるという事態は、他ならぬ彼ら自身にとって問題となるはずです。それにも関わらず彼らはしばしば、私が片手間に作った合成写真に対してすら擁護しようとする責任感を示すのです。

こうした傾向は、彼らが、UFOが存在する事を真摯に明らかにしようとしているのではなく、単にUFO皇帝派というアイデンティティを欲しているために生まれます。彼らのほとんどは、UFOが本当に存在するか否かなどという事はどうでもよいことなのです。実際、本物のUFO研究家からすれば、こうした人々の存在は、怒りの対象でしょう。

さて、自然科学に関して言えばこの学問分野がUFOに関して言う事は、これまでの所疑問の余地のないUFOの証拠は見つかっていない、という事だけです。

学問分野とは、対象とする領域および方法論によって特徴付けられるのです。主張や思想によってではありません。物理学という学問分野自体がUFOを否定するという事はあり得ません。

ところが大槻教授は、特定の、例えばこれがUFOの写真だとする主張に反論するとか、その写真に写っているのはUFO以外のこれこれだ、と主張したりするのではなく、UFOは存在しない、と一般的な主張を行います。そしてそれが科学の姿勢であると言うのです。この姿勢は、単に主張が裏返しになっただけで、UFO信奉者と何ら変わりがありません。

#それどころか、通俗的な意味での科学的、非科学的という物事の分類においても、霊魂とか運とかならともかく、UFOが非科学に分類されるとは、私にはちょっと思えません。もし社会的にそのような感覚が広まっているならば、その責はこうした人々にあります。

この手の、自然科学を自分のアイデンティティの確立に利用する人々によって、自然科学は、一つの立場、陣営に貶められてしまいます。残念な事に、特別な評価に値するような業績を挙げている人の中にもこの手合いが数多くいますし、さらに大衆的メディアが要求する科学者像に一致し、メディアは彼らのアイデンティティの確立に一役買うために、メディアによく露出し、強い影響力を持ちます。

現代社会は、科学技術の大きな基盤の上に成り立っていますから、科学の方法論において立証されていない類の物事を信じる事が社会的に好ましくない、あるいは何らかの非効率を生む(科学で立証されていない=現代社会が利用してこなかった)という考えは有り得ます。例えばなんの変哲もない壷を100万円で売りつける悪徳商法の類をそれによって防ぐ事ができるかもしれません。しかしそれは飽くまで政治的とも言ってよい思想であり、自然科学がそのような思想を要求するわけではありません。自然科学に携わる人間が、そのような思想を持ったり、その動機としてその人間が自然科学に携わっている事が何らかの責任感を生じた事があっても良いのですが、そうした人間が勝手に科学を代表して喋るとしたらそれは問題です。

私は、アイデンティティとは行動、人生の結果として得られる物であって、それ自体を行動原理にすべきではないと思っています。ただし、ここでの議論にこの思想は直接は関係なく、私が主張したいのは、アイデンティティの確立を目指す行動姿勢はしばしば真実に仕える誠実な姿勢と相反し、そうした場合に前者が優先されるという事は、真実を追究する学問の上ではあってはならないということです。

アイデンティティの確立を目指してある特定の立場をとるならば、必ず、それ以外の立場の存在を必要とします。しかも第三者的な立場の人間は、誰かが特定の立場を押し付けるなどの不愉快な関わり方をしてこない限り、どの立場も同様に受用するという``大人の対応''をとります。当事者ですら、反対陣営を必要とする事から、しばしばそのような妥協点、落とし所に落ち着いて満足してしまいます。

最後に、第三の点については、これは第一、第二とわける意味があまりなかったかもしれませんが、特に、少なからない物理学者が、その深く関わっている分野においてすら、ある主張が本当に正しいか、そしてそれが正しいとは正確に何を意味し何を意味しないか、についての興味を失い、単に仕事をしているだけの状態に陥っている事をあげておきましょう。もちろんこれは、物理学に限っての事ではありませんが。
一つ目として挙げた先に夢―自然科学が、人間が生み出し、議論してきた思想、主義、主張に関してまで決着をつける能力を持っている夢―を見たのは、また積極的に自然科学の不思議に見える部分、奇妙に見える部分を強調し宣伝してきたのは自然科学の側であるという事、について。

先に夢を見たのは自然科学の側である、とは主に量子力学を想定しています。言うまでもなく、量子力学に至って自然科学は遂に、人が見ていない時に月は存在しているのか否かという、世界を観察する事によっては決着をつけられようはずもない、そもそも存在という概念をどう捉えるのかという点に核心がある問題に、答えを与えるに至ったという幻想を抱いたのは、量子力学の建設に携わった著名な物理学者達自身でした

また、``公理主義''の哲学上、あるいは思想上の議論への表面的な形式だけを踏襲した応用、特にある種の稚拙な「神の存在証明」を、またそのような「証明」が「公理」だけでなくその証明の論理性すらも延々と議論され続ける様子を、自然科学に関わる人間はしばしば嘲笑します。しかしながら、物理学自体、ニュートンがプリンキピアを言論の形式を踏襲して著して以来今日まで、いくつかの公理からの演繹によって法則を導いていくという形式がほとんど強迫観念であるかのように重視され、数多くの教科書、解説書がこのような形式を粗雑に、無造作に、無分別に、踏襲して書かれてきました。実際の物理学の研究において、ある法則から別の法則を演繹的に導くという事はせいぜい一側面にすぎないにも関わらず。そしてまた、そのような教科書、解説書は、わずかな(#参照)``公理''による広範な結果の導出を演出しようとする余り、決して初めに列挙された``公理''だけからは導かれない結果を、曖昧な議論によって導くという事が頻繁に行なわれてきたのです。

#余談であるが、全く以って何故だか不思議な事に、このような公理として挙げられる一連の主張は、多くの場合「三つ」であり、そうでない場合のほとんどにおいては、「五つ」である。これは「奇数の呪術」その物であろう。つまり単に据わりが良いというだけでこの数は選択される。普通古典力学の第三法則に挙げられる「作用・反作用の法則」、あるいは熱力学の第三法則「絶対零度に到達する事はできない」の他の法則からの浮きっぷりは、「非核三原則」の「持ち込ませない」を想起させる。*これは全くの余談である。

さらに「公理主義」を説明する上で大抵の場合一番初めにユークリッド幾何学が例として取り上げられるでしょうが、この公理主義の本家本元と言って良いだろう数学でさえも、公理からの演繹という形式によって物事についての厳密で明晰な議論が可能になるのだという無邪気な姿勢を長い間とり続けました。ある命題が証明されたという事が具体的に何を意味し何を意味しないのかについて詳細な検討が加えられるようになったのは実に20世紀初頭の事です。

そして、積極的に自然科学の不思議に見える部分、奇妙に見える部分を強調し宣伝してきたのは自然科学の側であるという事について言えば、言うまでもなく、相対性理論、量子論が奇妙であり、不思議な結果を予言するという点は専門家達自身によって度々強調されてきたのです。

確かに、これらの理論の創成期には、こうした混乱がありました。しかしながら、それは速やかに解消され、これらの理論が世界を確かに記述しているかどうかは綿密に検証しなければならないにせよ、机上の空論の段階で何らかのおかしな問題を含んでいるような代物ではない、という理解が今では(というよりだいぶ以前には既に)得られています。

そして、それにも関わらず未だに、世間には量子論や相対性理論の奇妙で不思議な点を強調し、その神秘性を演出する姿勢が根強く残っています。それは、受けがよいために大衆メディアによって広く行なわれてきたという面もありますが、この社会的傾向に関する専門家達の果たしている役割は、決して小さい物ではありません。

このように、学問に携わり、真実を追究しようとしている(つもりになっている)人間も、自分が必ずしも専門的な知識を持っていない分野に過剰な夢を見たり(量子力学がある種の哲学的命題に答えを与えると期待するという事は、逆に、哲学的な考察が量子力学的現象の理解を与えてくれるかもしれないと期待するという事でもあります)、自分が携わっている分野の可能性を過大評価したりしてしまいがちです。また、自分の携わる学問分野やその方法論の正当性を主張しながらも、その正当性の主張に真剣に疑問の余地のなくなるまで検討を加えるという事はなかなか行なわれないものです。

ところで、私は初めに「先に夢―自然科学が、人間が生み出し、議論してきた思想、主義、主張に関してまで決着をつける能力を持っている夢―を見たのは自然科学である」と書き、そして量子力学が特定の思想を支持すると初めに考えたのは物理学者達自身である、と書きましたが、もっと遡れば、例えばダーウィンの進化論が優生主義者によって不当に歪められた形でその正当化として流用された事を初めとして似たような事例は山ほどあり、どちらが先と言えるような物ではないでしょう。そしてまた、もちろん、この問題は、先の方が悪いというような単純な話ではありません。しかしながら、少なくとも、自然科学に深く関わる人間は、ここまでに述べたような事を、自省を込めて「先に夢―自然科学が、人間が生み出し、議論してきた思想、主義、主張に関してまで決着をつける能力を持っている夢―を見たのは自然科学である」と標語的に認識するべきでしょう。同じ事が「積極的に自然科学の不思議に見える部分、奇妙に見える部分を強調し宣伝してきたのは自然科学の側である」という事についても言えるでしょう。
サイエンスウォーズ (2005/07/25(月) 02:41:52)
http://ruke.blog5.fc2.com/blog-entry-120.htmlの続き

真実への熱望という学問の基本姿勢を持っていない人間の最大の問題点は、自分の行なう議論のある(重要な)部分について、それが正しいと自分自身すら確信していないという事、さらにはその部分が正しいのかどうかに興味がないということです。もちろんこのような主張に全く意味がないというわけではありません。どんな主張も(チンパンジーが無作為にタイプライタで打ち出した文章でも)、それが生み出されるに至った動機、姿勢、方法に関わらずそれ自体独立に意味を持つと考える事ができます。真実に至ろうとする強い目的意識という背景を持たない主張の中に考慮に値する主張が含まれていないと考える理由はありません。しかしこのような姿勢に基づく主張は有害なのです。学問という営みの進歩に貢献しないという点において。

こうした姿勢の人間は、明確な目的意識の下で自然科学に接するのではないために、自然科学のある主張に関する``一般的に噛み砕いた''説明に触れて「不思議だ、奇妙だ」と思った時にのみ興味を抱きます。ちょっと知性派ぶるための会話のネタを仕入れるためには、この程度の接し方で十分でしょう。しかしこの人間が、真実に至ろうと努力する姿勢を持たず、それでいて真実の探求者であるかのように振舞っている場合、大抵の場合以下の二つの行動をとります。一つは、その主張をごくごく当たり前の主張へと矮小化した上で、ごくごく当たり前の説明を与える事です。しかしこれによって損をするのはせいぜいその人間自身でしょう。問題になるもう一つの行動は、その主張がある特殊な思想を反映していると考え、さらに世界がその思想を支持しているとまで考える事です。そして最悪なのは、今基本的には無害であるとした前者の行動が後者と結びついた場合です。すなわち、一方ではその主張をごくごく当たり前の主張にすりかえて説明を与え、それでいてその事には無頓着に、その主張によって何らかの特別な思想や議論を正当化するのです。

この場合、この論者が自然科学のある主張を正しく理解していない事は大して問題になりません。きちんと学んで専門家になった物以外は自然科学に関わるな、というのは、他ならぬ自然科学自身の目指す普遍性の一つの側面―誰にでも使える―に反する主張です。問題なのは、この論者が、自分が流用した自然科学の主張が、何を意味していて何を意味していないのか、明確に、正確に(少なくとも自然科学を学ぶ学生が払う程度の努力によって)理解しようとする姿勢を持っていない事です。そのような追求は、彼自身の議論の質を高めるためにも確実に有益なはずにも関わらず、です。そうして進歩への道が一つ閉ざされるのです。

このような人間は、真実へ至ろうとする強烈な目的意識を行動原理として持ってはいません。その代わりにあるのは、多くの場合、現代社会において個人の行動原理として中心的な地位を占める、アイデンティティの確立です。そしてこの事が、真実の追究という学問の営みを、アイデンティティの対立へとすりかえてしまうのです。

#アイデンティティの確立という行動原理自体を、この文章によって批判しているわけではありません。

こうして、このような人々が自然科学を正しく理解していないと批判されると、異なる立場・陣営に属し、異なるアイデンティティを持つ人々からの、自分のアイデンティティに対する``攻撃''であると捉え、``反撃''する事になります。

#件の知人は、http://d.hatena.ne.jp/fer-mat/20050413/p18についても何を一番問題にしているかというと批判力を持っていないことですとコメントしているが、全く同じ事は過去に、ソーシャル・テキスト事件において非常に大規模に起こり、その後もそこここで起きている。

ところで、ここまで私は、真実に至ろうという強い目的意識を持たない姿勢こそが問題であると強調してきました。従って、問題は自然科学(用語)の不適切な流用を行なう思想家、社会学者、哲学者等の自然科学以外の学問分野に携わる人々に留まりません。私達は次の三つの事実を忘れてはなりません。一つ目は、先に夢―自然科学が、人間が生み出し、議論してきた思想、主義、主張に関してまで決着をつける能力を持っている夢―を見たのは、また積極的に自然科学の不思議に見える部分、奇妙に見える部分を強調し宣伝してきたのは自然科学の側であるという事です。そして二つ目は、実際に自然科学の専門家や何らかの形でこの分野に携わる人間によって、単に自分のアイデンティティをより強固な物とするという目的のために他分野の人間に攻撃を加えるという事が実際に行なわれているという事です。最後に、自然科学分野にも、真実に対する誠実な姿勢を持たない人間は(悲しい事に数多く)いるということです。

(続く)
オッジオ (2005/07/25(月) 00:38:20)
日常的に音楽を聴く習慣がない上に、デジタル製品の最大公約数的でしかも機能性と分離した格好良さがほとんどの場合好きになれず、例えばiPod shuffleなんか結構しらけていたんだけど(シンプルの限りをつくすってのは、なんだかんだで誰でも思いつくアイデアだと思う)、
キューブ型のポータブルMP3/WMAプレーヤー
これ、格好よすぎ。久しぶりに琴線に触れたデザイン。あと少し、有機ELの文字を青以外(黄色か赤)にする勇気があれば完璧なのになあ。
ラッキー (2005/07/22(金) 14:05:16)
今日はさっさと帰りたかったので、昼に情報学環の図書室とかいう所までいって、「知の欺瞞」を借りてきたりしたんだけど、(なんで総合図書館にないんじゃ)統計力学は簡単だったし(3/4までしか行けなかったけど)、演習の試験は超簡単で1時間で終わるしでめちゃくちゃ時間に余裕ができてしまった。

そうか、高温極限は0+1+2+...+N/(N+1)=N/2って一瞬でチェックできるじゃん。駄目駄目。 
イーエム (2005/07/21(木) 16:13:45)
電磁気は全然勉強していかなかったのにそれなりにどうにかなった。というか問題がいくらなんでも・・・。三問中二問とも対称性の高いポテンシャル問題(それもcosθ/r^2の双極子タイプ)とかありえん。まあでも、始め多重極展開でポテンシャルをおいて解き始めたんだけど、それが

と間違っていて、どうしても電位を微分した電場と電電荷分布があわず、そういえば、各nの項の係数は、∫Pn^2になっているんだった、と慌ててポテンシャルをr cosθと外場に由来する項の線形結合で置いて係数を求める方針に切り替えて大いに時間をくったのでこれくらいがちょうど良かったのだけれど。ポテンシャルを求めてからそれを微分して電場を作って電荷を求めるっていうのは、何だか気に食わなくって、電荷分布と電位の関係を直接与えてくれてしかも成分ごとの議論が可能な関係式がある以上、とにかくここから出発するのが一番素朴な方法だと思うんだけど、やっぱ手許に資料がないとすぐには使えない。というか、それじゃ困るので、今覚えよう。この係数は4piじゃなくて4pi/(2n+1)。よし覚えた。

というわけで、誘電体境界面での場の不連続性と境界条件という多分今回一番の重要事項を、光学で何となくやったし何とでもなるだろうと思って何もせずに行ったのが、三問目でブリュースターアングルがどーたら、とか、本当に光学で勉強しておいた事がそのままどんぴしゃで出てラッキーと思ったのに、結局三問目まで行けずに終わったのでした。

それはともかく、昨日特に勉強していたわけでもないのに無意味に4時半まで起きていたせいでねむい眠い。これで今寝ると結局また夜遅くまで起きていることになるわけだが、、、まあ今日は統計力学の勉強があるしな。というわけでヤスミー。
ゼミナール (2005/07/21(木) 04:00:11)
そういえば来学期のゼミの志望明日までだった。あやうく用紙を持っていくの忘れる所だった。

でもなあ、これ、テーマが偏りすぎだろう。素粒子か宇宙。講義では一般相対論も場の量子論も扱ってないこの段階で、わざわざ上の極端と下の極端ばかりをピックアップってなあ。でこういう風に偏っているのに生物物理系が二つもあるというのがまたアレだし。んで物性が二つと。要は、金になるか、金を使うか(金が動くか)なんだよなあ。この前秋葉原に言った時、巨大なビルが建っていて、すっごく嫌な気持ちになった(ちなみに東大も入っている)のを思い出した。

物性に特別興味があるわけではないのだけど、ガラスと液体の物性研究は、なんていうか、違和感を感じない?物理学全体を俯瞰する視点に繋がり易そうに感じられるって感じかな。あとはとにかく現時点で基本的な具体的計算が自分でもできる分野っていうと、素粒子系が全部除外されちゃうよなあ。夏休みが終わるまでに改善されていればいいけれど。とりあえず、量子力学と光、相対論の実験的基礎、スピン(朝永先生の本をわざわざ英語でってのがニャンとも、、)、宇宙観測の最前線、量子多体論入門、非加速器素粒子実験・宇宙素粒子物理学としてみた。まあ、小さい方と大きいほう交互にって感じで。
イロイロ (2005/07/21(木) 03:10:26)
今回の試験は何だか散々だな。そんなに適当な準備で試験に臨んでいるというわけでもないんだけど。後で冷静に考えると何てことはない事で相当はまってしまっている事が多い。というか最近、試験時間で半分くらいまでしか到達できないケースがデフォルトになっていて少しアレだ。まともだったのは物理数学くらいか。。。

うん、少なくとも試験の点数がそのまま成績評価になっていたら、全部不合格だ。まあ、そんなことは全然ないわけですが。

演習の試験なんて、そんなに問題なく進んだんだけど(まあ一箇所すっごくくだらない事ではまったけど)二問目にいけなかったもんなあ。

閑話休題

ファン感涙の、「Belgarath the Sorcerer」の邦訳。もうでることなんかないのかと思ってたけど、ハヤカワ偉い。

表紙のポレドラに狼の気高さがちゃんと出てるのが非常に良い。まあ渋すぎるベルガラスは何だかアレだが。
でもなあ、原書一冊の所三分冊かよ!文字も何事かと思うくらい大きいし。それで840円と高いし。でも、そういう大人の事情で分冊したわりには、一冊目の終りがドンピシャであのシーン。ここで何が起こるか知っているために泣けて、この後マロリオンで何が起きるか知っているぶんさらに泣ける。
七夕近し (2005/07/21(木) 02:47:11)
珍しくコメントをいくつか付けてもらっていますが、ちょっと置いておいて(汗)

知人がこういう話を書いていたのでその関連で。

知人が書いていたのは、特に科学ジャーナリストとして有名な立花隆が駒場で行なった講義の講義録(というかレジュメ)で、立花隆がおそらくは専門的には学んでいない事項について相当におかしな理解が見られるという事。二つのグループが別々に講義録を作っているので、基本的には本人が語った事でしょう。

WEBサイト:http://www.sakamura-lab.org/tachibana/
講義録1:http://www.sakamura-lab.org/tachibana/first/06minj/start.html
講義録2:http://www.sakamura-lab.org/tachibana/first/t6/index.html

こうした立花隆の批判っていうのは、立花隆の著名度が高まるのと同時に結構出てくるようになっていて、かなり以前からネットでも見かけるようになりました。改めて検索してみたのですが、
http://www.ywad.com/books/1103.html
http://www.ywad.com/books/1102.html
このページなんかは、高校生の頃にも見た記憶があります。

私は実は、トンデモ科学の類が大好きなので、こういった専門家とは一線を画しながら、なお自然科学に積極的に関わりを持つ、あるいは積極的に言及する人々の行動パターン、発言パターンという物にかなり慣れ親しんでいます。そして多くの場合それは、その性質上当然と言えば当然ですが、非常に好ましく感じられる姿勢です。しかし問題がある、と強く感じるケースも頻繁にあります。私自身非常に限定された分野の初学者中の初学者ではありますが、いくつか、この人は間違った理解をしている、と明確に判定できる話題はあります。しかしながらこうした感覚には、その人がある特定の事項について正しい理解をしているかどうかはほとんど関係しません。問題があると感じられる基準を最も簡単に一言で言い表すならば、真実の何たるかに一片の興味もなく、人間関係にしか興味がない、それでいながら真実の探求者であるかのように振舞っているという事です。

物理学に限らず多くの学問分野は、真実の探求という強力な目的意識を持っています。特に物理学は、この世界で我々が実際に経験する現象について、何が正しくて何が正しくないのか明確に理解したいという強力な目的意識の下に発展してきた学問です。従って、部分的にでも物理学を学ぼうとする場合、まず何をおいてもその目的意識を共有しなければなりません。

(続く)
パターベイション (2005/07/18(月) 02:53:26)
試験勉強の副産物
展開係数を表立って書かない摂動論の導入

これくらい整理すれば、どうとでもなるだろう。
スーパーポジション (2005/07/17(日) 19:25:38)
量子力学の著しい特徴の一つは重ね合わせの原理だ。ところが、一般向けの解説だけでなく、もう少し専門的な文書でさえ、「状態Aと状態Bが可能なら、例えばA+Bのようなそれらの重ね合わせ状態があり得る」という部分を特に強調してしまう傾向がある。そのために、そんな訳のわからない状態からは、僕らの日常的な経験に反する結果が導かれるはずだ、という考えが生まれる。シュレディンガーの猫の有名な思考実験は、ここに問題意識がある。

物理で重ね合わせの原理という場合、必ず強調されるべきもう一つ重要な事があって、それは、ある時間たってAがA'になり、BがB'になるならば、A+BはA'+B'になるという事だ。もし量子力学の下で、AとBの重ね合わせから、AやBからは到底予想できないようなわけのわからない複雑な現象が起きるのならば、重ね合わせの原理を聞いて量子力学が世界を記述しているなんて信じられん、と思うその懸念は正しかったかもしれない。しかし実際には、全くその逆で、AとBの重ね合わせからはAとBから容易に予想可能な現象しか起きない。もっと簡単に言えば、「問題のない状態を重ね合わせて、それを時間発展させても、問題のない状態の重ね合わせしか起きない」という事だ。

シュレディンガーの猫の場合で言えば、毒ガス装置が
|毒ガス発生する> +|毒ガス発生しない>
という状態に準備され、猫が
|ニャー>
という状態に準備されている場合、全体の状態は
|ニャー、毒ガス発生する>+|ニャー、毒ガス発生しない>
と記述する事ができる。

そして、もちろん、ここに現れた重ね合わされている二つの状態は、それぞれ単独では
|ニャー、毒ガス発生する>→|死亡ニャー、毒ガスが発生した>
|ニャー、毒ガス発生しない>→|生存ニャー、毒ガスが発生しなかった>
という時間発展をする。

そしてそうであるならば、重ね合わせの原理によれば、今準備した状態を時間発展させた結果は
|死亡ニャー、毒ガス発生した>+|生存ニャー、毒ガス発生しなかった>
に直ちに限定されてしまうのだ。ここでは決して|死亡ニャー、毒ガス発生しなかった>や、|生存ニャー、毒ガス発生した>なる、「おかしな状態」が現れる事はない。

#通常、シュレディンガーの猫のパラドクスは、量子力学において測定行為に本質的に絡んでくる確率と、無知に起因する確率を混同している所に問題があるとされる。つまり、確率1/2で毒ガスを発生させる装置は、生きている猫と死んでいる猫の重ね合わせを作り出すわけではない。しかしながら、(超選択則によて実質的には禁止されるものの)量子力学の理論上は、生きている猫と死んでいる猫の重ね合わせ状態は許され、(おそらくは宇宙年齢よりはるかに長い時間を要する)多大な努力の下、このような状態を準備することができる。その場合にも、量子力学が正しいならば、問題は生じないはずで、実際問題が生じないというのがここの議論。

このように、状態の重ね合わせが「ごちゃごちゃした、わけのわからない、複雑で奇妙な結果(よって現実に反する)を生んでしまうのではないか」という懸念は実は全くの検討はずれなのだ。むしろ、実際に問題になるのは、この、量子力学の示す、「度が過ぎた単純さ」である。

ニャニ? (2005/07/15(金) 00:47:43)
ずっとwhileをsinceと同じノリで理由を表す接続詞として使っていたのだけど、そういえばそんな用法をついぞ見た事がないぞ、と急に不安になって辞書で確認->どこにも載っていない。~であるのに対して~っていう使い方がいつのまにか自分の中で変容してしまったらしい。やっぱ書くだけで添削してもらえない環境だと、だんだん変な癖がついてよくないなあ。
スペースシャトル (2005/07/14(木) 03:23:51)
打ち上げ延期だって
まあ、問題に気づかないで打ち上げて事故とか、問題があったのに打ち上げ強行とかよりはよっぽど健全な体制だと思うんだけど、それ以前に、シャトルって飛行機っぽい見かけにだまされやすいけれど、ものすごく不安定で、不確実で、危うい製品なんだなーと思う。コロンビアの事故の前でさえ、ロシアのソユーズとかと比べればずっとしょぼい運行体制だったし。てか、そろそろ新しいの作れよ。
トーケイ (2005/07/14(木) 01:18:10)
統計力学のレポートもどうにか完成。んで、明日これを提出しにいったら演習のレポートをもう一つって、、、。まあ、それさえ終わればその後の試験勉強はだいぶ余裕があるのが救いか。
ドーニカ (2005/07/13(水) 06:04:49)
なぜか今回演習が二回分あるので、そのうち一回分を無理やり今日のうちに終わらせた。ネミュイ。
オルガン (2005/07/11(月) 07:35:19)
やったーオプチクスの勉強完了ーー。
何だかさっきから内臓が破裂しそうだ。徹夜したのはひさしぶりだなあ。
デフラクト (2005/07/11(月) 05:23:23)
あとは回折だけだー。
っていうか、こういう内容だと、試験は、「~について説明せよ」ばかりになりそうな予感。でもまあ、ここまでやったし、あと回折だけだし、計算追う事くらいはすませてしまおう。
ポラリゼイション (2005/07/11(月) 03:33:39)
偏光終わったー。あとは、干渉と回折か・・・
オプチクス (2005/07/10(日) 23:30:04)
土曜日に物理数学のレポートを書き、今日の夜24時までに光学の電磁波の所が終わればどうにかなるだろう、という絶対無理そうだった計画がなんと今のところ順調に行っている。唯一の問題点は、今日の夜24時までに電磁波のところまで終わったとしても、その後にまだ半分くらい残っている事なのだが、この調子だとどうにかなりそうな予感。
ウオッ (2005/07/10(日) 03:36:13)
なんてこった。実験(計算機)の出席メール出すのすっかり忘れてた。
ウブメ (2005/07/08(金) 03:16:08)
ウブメの夏の映画ですが、Yahooのページに、

600ページにもおよぶ原作を簡潔にまとめあげた実相寺監督の構成力はさすが。


と、めちゃくちゃ不安な記述が。だいじょうぶなのか?
デンジキレポート (2005/07/07(木) 02:44:36)
始めの全然間違っていた計算を入れたら、本当に三日がかりで、鬼のような計算を実行した。

いやうん、ラプラス方程式の解法って、解の一意性を傘に着て、たまたま見つかりゃOKって方法が多すぎて、しかも歴史的に様様な技巧が見出されてきた分野だから、最も素朴な方法というやつが見にくい。で、たまには、解が実際に一つに決定されていく様子をまざまざと``観察''してみたいなー、と思ったわけだ。んで、レポート問題の、球殻状の磁性体を一様な磁場中においた場合の磁場について、とにかく球面調和関数展開して境界面でくぎられる個々の領域でラプラス方程式が満たされるようにし、次いで境界条件を展開係数に関するたくさんの一次関係式という形で書き下し、それを解く、というおそらくは(球面調和関数を知っている場合の)最も素朴で全く頭を使わない手続き的な方法を実行(敢行)してみた。

http://f18.aaa.livedoor.jp/~ruke/mypapers.htm

いやほんと、全ての係数を決定するために、完全に過不足ない方程式が得られ、ちゃんと一様な成分と双極子成分以外は0という結果が得られた。0にならない係数の計算は、四元一次連立方程式になって、こいつをMathematicaに解いてもらったら、ちゃんと本に載っているのと同じ答えになった。う~ん、ちゃんと決定されるもんなんだねー。

他の課題は、時間がおしているので適当にすませた。
デープインパクト (2005/07/03(日) 20:10:15)
何このレポートの量。地獄。

でも、ちょっと見過ごせないものがあったので。

ディープ・インパクト計画

お願いだから、知的生命体が住んでいたら地球が滅びかねない計画は止めてください、いや本当に。
(C)Copyright 2003-2007 by Ruke All rights reserved. Powered By FC2. VALID HTML? VALID CSS?
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。