RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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第二の点について言えば、UFOキョージュこと大槻教授を例に挙げれば十分でしょう。

UFOに関して、あらゆる学問の共通の姿勢-真実の追究-からいって問題になるのは、多くのUFO信奉者達自身が、各々のUFOの証拠とされる物について、その真偽にほとんど興味を示さない点です。端からUFOを信じないような人達よりも、彼らにとってこそ、その真偽は重要であるはずにも関わらず。

たとえUFOが存在したとしても、それは、あらゆるUFOの証拠として提出された物の全てが本当にUFOと関連があるという事を意味しはしません。UFOの存在を世に知らしめたいと彼らが本当に願うのならば、誰かが興味本位で作った合成写真を排除し、ある程度信憑性が認められる証拠のみを世に問うべきなのです。せっかく本当にUFOが存在するのに、誰かが作った下らない合成写真によって彼らの主張が不当に否定されるという事態は、他ならぬ彼ら自身にとって問題となるはずです。それにも関わらず彼らはしばしば、私が片手間に作った合成写真に対してすら擁護しようとする責任感を示すのです。

こうした傾向は、彼らが、UFOが存在する事を真摯に明らかにしようとしているのではなく、単にUFO皇帝派というアイデンティティを欲しているために生まれます。彼らのほとんどは、UFOが本当に存在するか否かなどという事はどうでもよいことなのです。実際、本物のUFO研究家からすれば、こうした人々の存在は、怒りの対象でしょう。

さて、自然科学に関して言えばこの学問分野がUFOに関して言う事は、これまでの所疑問の余地のないUFOの証拠は見つかっていない、という事だけです。

学問分野とは、対象とする領域および方法論によって特徴付けられるのです。主張や思想によってではありません。物理学という学問分野自体がUFOを否定するという事はあり得ません。

ところが大槻教授は、特定の、例えばこれがUFOの写真だとする主張に反論するとか、その写真に写っているのはUFO以外のこれこれだ、と主張したりするのではなく、UFOは存在しない、と一般的な主張を行います。そしてそれが科学の姿勢であると言うのです。この姿勢は、単に主張が裏返しになっただけで、UFO信奉者と何ら変わりがありません。

#それどころか、通俗的な意味での科学的、非科学的という物事の分類においても、霊魂とか運とかならともかく、UFOが非科学に分類されるとは、私にはちょっと思えません。もし社会的にそのような感覚が広まっているならば、その責はこうした人々にあります。

この手の、自然科学を自分のアイデンティティの確立に利用する人々によって、自然科学は、一つの立場、陣営に貶められてしまいます。残念な事に、特別な評価に値するような業績を挙げている人の中にもこの手合いが数多くいますし、さらに大衆的メディアが要求する科学者像に一致し、メディアは彼らのアイデンティティの確立に一役買うために、メディアによく露出し、強い影響力を持ちます。

現代社会は、科学技術の大きな基盤の上に成り立っていますから、科学の方法論において立証されていない類の物事を信じる事が社会的に好ましくない、あるいは何らかの非効率を生む(科学で立証されていない=現代社会が利用してこなかった)という考えは有り得ます。例えばなんの変哲もない壷を100万円で売りつける悪徳商法の類をそれによって防ぐ事ができるかもしれません。しかしそれは飽くまで政治的とも言ってよい思想であり、自然科学がそのような思想を要求するわけではありません。自然科学に携わる人間が、そのような思想を持ったり、その動機としてその人間が自然科学に携わっている事が何らかの責任感を生じた事があっても良いのですが、そうした人間が勝手に科学を代表して喋るとしたらそれは問題です。

私は、アイデンティティとは行動、人生の結果として得られる物であって、それ自体を行動原理にすべきではないと思っています。ただし、ここでの議論にこの思想は直接は関係なく、私が主張したいのは、アイデンティティの確立を目指す行動姿勢はしばしば真実に仕える誠実な姿勢と相反し、そうした場合に前者が優先されるという事は、真実を追究する学問の上ではあってはならないということです。

アイデンティティの確立を目指してある特定の立場をとるならば、必ず、それ以外の立場の存在を必要とします。しかも第三者的な立場の人間は、誰かが特定の立場を押し付けるなどの不愉快な関わり方をしてこない限り、どの立場も同様に受用するという``大人の対応''をとります。当事者ですら、反対陣営を必要とする事から、しばしばそのような妥協点、落とし所に落ち着いて満足してしまいます。

最後に、第三の点については、これは第一、第二とわける意味があまりなかったかもしれませんが、特に、少なからない物理学者が、その深く関わっている分野においてすら、ある主張が本当に正しいか、そしてそれが正しいとは正確に何を意味し何を意味しないか、についての興味を失い、単に仕事をしているだけの状態に陥っている事をあげておきましょう。もちろんこれは、物理学に限っての事ではありませんが。
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一つ目として挙げた先に夢―自然科学が、人間が生み出し、議論してきた思想、主義、主張に関してまで決着をつける能力を持っている夢―を見たのは、また積極的に自然科学の不思議に見える部分、奇妙に見える部分を強調し宣伝してきたのは自然科学の側であるという事、について。

先に夢を見たのは自然科学の側である、とは主に量子力学を想定しています。言うまでもなく、量子力学に至って自然科学は遂に、人が見ていない時に月は存在しているのか否かという、世界を観察する事によっては決着をつけられようはずもない、そもそも存在という概念をどう捉えるのかという点に核心がある問題に、答えを与えるに至ったという幻想を抱いたのは、量子力学の建設に携わった著名な物理学者達自身でした

また、``公理主義''の哲学上、あるいは思想上の議論への表面的な形式だけを踏襲した応用、特にある種の稚拙な「神の存在証明」を、またそのような「証明」が「公理」だけでなくその証明の論理性すらも延々と議論され続ける様子を、自然科学に関わる人間はしばしば嘲笑します。しかしながら、物理学自体、ニュートンがプリンキピアを言論の形式を踏襲して著して以来今日まで、いくつかの公理からの演繹によって法則を導いていくという形式がほとんど強迫観念であるかのように重視され、数多くの教科書、解説書がこのような形式を粗雑に、無造作に、無分別に、踏襲して書かれてきました。実際の物理学の研究において、ある法則から別の法則を演繹的に導くという事はせいぜい一側面にすぎないにも関わらず。そしてまた、そのような教科書、解説書は、わずかな(#参照)``公理''による広範な結果の導出を演出しようとする余り、決して初めに列挙された``公理''だけからは導かれない結果を、曖昧な議論によって導くという事が頻繁に行なわれてきたのです。

#余談であるが、全く以って何故だか不思議な事に、このような公理として挙げられる一連の主張は、多くの場合「三つ」であり、そうでない場合のほとんどにおいては、「五つ」である。これは「奇数の呪術」その物であろう。つまり単に据わりが良いというだけでこの数は選択される。普通古典力学の第三法則に挙げられる「作用・反作用の法則」、あるいは熱力学の第三法則「絶対零度に到達する事はできない」の他の法則からの浮きっぷりは、「非核三原則」の「持ち込ませない」を想起させる。*これは全くの余談である。

さらに「公理主義」を説明する上で大抵の場合一番初めにユークリッド幾何学が例として取り上げられるでしょうが、この公理主義の本家本元と言って良いだろう数学でさえも、公理からの演繹という形式によって物事についての厳密で明晰な議論が可能になるのだという無邪気な姿勢を長い間とり続けました。ある命題が証明されたという事が具体的に何を意味し何を意味しないのかについて詳細な検討が加えられるようになったのは実に20世紀初頭の事です。

そして、積極的に自然科学の不思議に見える部分、奇妙に見える部分を強調し宣伝してきたのは自然科学の側であるという事について言えば、言うまでもなく、相対性理論、量子論が奇妙であり、不思議な結果を予言するという点は専門家達自身によって度々強調されてきたのです。

確かに、これらの理論の創成期には、こうした混乱がありました。しかしながら、それは速やかに解消され、これらの理論が世界を確かに記述しているかどうかは綿密に検証しなければならないにせよ、机上の空論の段階で何らかのおかしな問題を含んでいるような代物ではない、という理解が今では(というよりだいぶ以前には既に)得られています。

そして、それにも関わらず未だに、世間には量子論や相対性理論の奇妙で不思議な点を強調し、その神秘性を演出する姿勢が根強く残っています。それは、受けがよいために大衆メディアによって広く行なわれてきたという面もありますが、この社会的傾向に関する専門家達の果たしている役割は、決して小さい物ではありません。

このように、学問に携わり、真実を追究しようとしている(つもりになっている)人間も、自分が必ずしも専門的な知識を持っていない分野に過剰な夢を見たり(量子力学がある種の哲学的命題に答えを与えると期待するという事は、逆に、哲学的な考察が量子力学的現象の理解を与えてくれるかもしれないと期待するという事でもあります)、自分が携わっている分野の可能性を過大評価したりしてしまいがちです。また、自分の携わる学問分野やその方法論の正当性を主張しながらも、その正当性の主張に真剣に疑問の余地のなくなるまで検討を加えるという事はなかなか行なわれないものです。

ところで、私は初めに「先に夢―自然科学が、人間が生み出し、議論してきた思想、主義、主張に関してまで決着をつける能力を持っている夢―を見たのは自然科学である」と書き、そして量子力学が特定の思想を支持すると初めに考えたのは物理学者達自身である、と書きましたが、もっと遡れば、例えばダーウィンの進化論が優生主義者によって不当に歪められた形でその正当化として流用された事を初めとして似たような事例は山ほどあり、どちらが先と言えるような物ではないでしょう。そしてまた、もちろん、この問題は、先の方が悪いというような単純な話ではありません。しかしながら、少なくとも、自然科学に深く関わる人間は、ここまでに述べたような事を、自省を込めて「先に夢―自然科学が、人間が生み出し、議論してきた思想、主義、主張に関してまで決着をつける能力を持っている夢―を見たのは自然科学である」と標語的に認識するべきでしょう。同じ事が「積極的に自然科学の不思議に見える部分、奇妙に見える部分を強調し宣伝してきたのは自然科学の側である」という事についても言えるでしょう。
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