RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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リラティビティ (2005/08/30(火) 02:23:14)
相対性理論の、物理法則を記述する枠組みとしての側面に関して言えば、最も基本的な主張は、物理法則は、上手い事頑張ると、ローレンツ変換に対して不変に書ける、という事だ。この事は決して、物理法則をそのように書かなければいけないという理由にはならない

もちろん、実際にはそのように書くべきであるという理由は技術的な理由から消極的な理由、積極的な理由まで山ほどあり、事実上ほとんど選択の余地はない。このために、ローレンツ不変に書かれた相対論的な理論によって自然に定義されるような重要な意味付けを持った量で日常的に用いられるような概念と大まかに結び付けられるような物を、その概念の「名前」で呼び表し、その概念の物理学的な「定義」と見なすということを物理学は無造作に行ってきた。

しかし、いかに相対性理論的な物理法則が世界の本質的な性質を明快に表す唯一の物で我々が曖昧に用いているある種の概念の正しい定義を教えてくれるようにすら感じられるとしても、どんな物理法則も我々の経験する出来事とその物理法則の記述上での表現との相互的な「翻訳方法」が与えられて初めて意味を持つという事を忘れてはならない。
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パラドクスオントウィンズ (2005/08/28(日) 02:47:44)
ちょっとここらで双子のパラドクスについて書いておこう。
ケンバン (2005/08/25(木) 00:58:12)
メモメモ
http://www.vshopu.com/USB_K649T/
http://www.wirelesskb.com/product/list.html?code=product&type1=p03
タイム (2005/08/24(水) 03:14:51)
そうか、物理量としての時刻tは十分に有り得るな。
時空の構造から、exp(-iPx)のような空間並進対称性、exp(-iJθ)のような回転対称性、そしてexp(-iHt)のような時間並進対称性をヒルベルト空間が備えている事が要請される。ここに出てくるxは単なるパラメタで、物理量としてのXとは直接的な関係はない。量子力学で時刻tがidψ/dt=Hψと、時間発展を記述するパラメタとして入るというのは、それと同じ話で、という事はつまり、物理量としての時刻Tを導入する事は全然構わない。

よく、時刻とエネルギーの不確定性関係δtδH~hというのは、XとPの同時固有状態は無い、という話とは意味が違う、と言われる。だけど、そもそもこの両辺をhでわってやると、δtδw~2π(あるいは1)となる。位置と運動量もδxδk~2π(あるいは1)。つまりこれらは、式単独ではそもそも次元解析以上の意味を持たない。いわゆる時刻とエネルギーの不確定性関係が位置と運動量の不確定性関係と意味する所が異なるから気をつけろ、というのは当然の話だけど、それはつまりこれらの式は考えている状況、文脈、現象毎に意味付けを見出さなければいけないという程度の話で特に神経質に考える必要は無い。そうすると、exp(-iPx)X=(X-x)exp(-iPx)から位置と運動量の交換関係が決まったように、H,TはP,Xと同じ交換関係を満たすはずだ。

ってこれって単に、時計の針を読むってだけの話だよなあ。何かおもしろくできないかな?
シュクヤク (2005/08/23(火) 22:08:00)

アインシュタインの縮約って、「簡単のため」の表記法って言われるけれど、僕のような初学者の場合、却って混乱する場合が多い。特に和の記号が省略されているために、そこに書いてあるのが添え字で指定される成分の単なる四則演算であるという感覚が持てず、一々行列の演算に翻訳して、大嵌りするような人を何度も見た事がある。自分の場合それほどの混乱はしたことがないけれど、テンポラリ・ラベル(和を取るためのラベルであるために具体的な文字が意味を持たない。)を見つけ出し、それ以外の``生きている''ラベルを見つけるのに散々時間がかかってしまう事とか、ラベルを張り替えて計算を整理するような所ですぐに計算が負えなくなってしまったりする。

それでも、アインシュタインの縮約記法には明確な利点があって、それは「物理的実体``っぽさ''が強調される」という事だ。

モヒカンゾクツイキ (2005/08/21(日) 03:10:45)
先日書いたモヒカン族関連の事でいくつか言及されたので追記。

(2005/08/20(土) 17:33:30)
ジャンボに背負われるシャトルの図
まじかよ。

以前似たような状況で陸路で運ぶ写真を見た事があるようなないような…。
エルオーテーアール (2005/08/19(金) 19:24:50)
こういった、アイデンティティとか立場という物が視点の全てとなってしまって正常な議論が行われない、それどころか議論という行為自体が無効になってしまっている状況というのは、現代においてはそこここにある。人類の活動がこれほどまでに国際的レベルにまで及んでしまっては、それはある程度仕方のない事だろう。

しかしこうした問題が非常にうまく対処され、望ましい議論が成立した例として印象深かった例がある。映画The Lord of the Ringsの字幕改善運動だ。
ダビュリュサンシー (2005/08/19(金) 02:28:31)
モヒカン族
まあ、しばらく前から見るようになった、まあ簡単に言うとネット社会における技術至上主義者というか、正しい事主義者というか、まあそういう種族。

これもやっぱり科学vs.非科学のような対立構造と同じで、立場・アイデンティティが行動原理の大きな部分を占めている人達によって状況がややこしくなる例だと思う。アイデンティティの確立のために対立陣営の存在を必要とする事が対立構造を成立させ、維持させてしまっている。
コクミンシントー (2005/08/18(木) 16:21:36)
国民新党(国民)ホームページ
略称「国民」を定着させたいらしい。「自民」との対比の積もりか?
公約の単純で見やすいレイアウトは非常に好感だけど、何だこのロボット三原則は?
ガメラ (2005/08/16(火) 01:45:14)
ガメラって亀である利点というか、甲羅を全く有効活用しないのはどういうわけだろうか。何かコンプレックスでもあるんだろうか。
ユーセーゾク (2005/08/14(日) 01:42:03)
だから今回の郵政民営化法案の審議から衆議院解散に至るまでの流れで、いろいろな立場の人たちは、それぞれに、誇れる行動をとったとは言い難いと思うのだ。
ユーセイ (2005/08/12(金) 15:41:00)
大体のところ、ある非常に大きな枠組み、制度とといった物を、一般論として批判するという事は、それが全く以って根本的に問題外な枠組みであったりする場合を除けば、できるはずがない。大抵の場合問題は容れ物ではなく、その中身だ。
シューリョー (2005/08/10(水) 09:22:14)
3956wordsにて終了。ぶっつけでよくもまあほどよい文量になったものだ。まあソースコードとか数式とかあるから、語数は正確ではないにせよ。

内容は以前にWEBページの方で少しだけ遊んでみた固有エネルギー、固有状態計算のスペクトル法。理論的な部分は(すごく簡単なので)頭に入っているから、そんなに大変ではないだろう、関連論文を真面目に調べてつけておくか、と思っていたら、いやー、昔書いたOctaveのコードが、偶々動いていただけですみたいな所がたくさんあってまいったまいった。夜12時くらいにコード書きと画像準備を始めたら進まない事進まない事。今ようやっと終わった。

しかし、うん、文章はともかくとして画像は一見の価値ありだと思う。以前WEBページに掲載したのに比べても、調和ポテンシャル下の時間発展が非常に見やすくなっている。
http://f18.aaa.livedoor.jp/~ruke/mypapers.htm
2100 (2005/08/09(火) 18:48:02)
2100words. よーし、明日実験学のレポートと同時提出が実現しそうだ。
1300 (2005/08/09(火) 15:52:06)
2時から開始して今1300words.
ウォーアンドサイエンス (2005/08/09(火) 03:36:59)
原爆以来、科学者達の一部はある種の責任感と使命感を持って、戦争や兵器開発に関する政治的、思想的発言、活動をするようになった。

ところがこうした発言、活動はある責任感、使命感の下で科学に携わる人間が、政治的、思想的発言、活動``も''している、というのにすぎないと感じる事がある。科学の営みを全体的に疎視化して見ると、常に戦争とか、兵器開発とかと一定の距離をおこうとする姿勢が見られる。そこには、「科学を戦争などという下劣なものに使うな」というような思考が存在してしまってはいないだろうか。

現状の科学は、ある人達は需要に応えて要求された物を作るという産業的な関わり方をし、残りの人達は研究活動において(少なくとも目の届く範囲で)戦争や兵器開発に関わりを持とうとしない姿勢を貫いている。そういう状況で、しかし無関心ではいかんだろう、と政治的、思想的な発言、活動を行ったとして、そこでは個人の力のみが影響力となり、科学の(さらには学問の)とてつもない強力さが活かされる事はない。

科学はもっと積極的にこうした分野に関わるべきではないだろうか。例えば、核兵器に対する効果的な防御技術の開発は、核兵器に固執する意味を大きく失わせるだろう。さらに、独占が絶え間ない競争を生む構造を解消し、兵器技術がアカデミズムによって広く共有されるようになり、しかもそれが非常に高度で日々物凄い速度で進歩するようになれば、一国の一機関が排他的に研究を行う事でその先を行くという事が不可能になるだろう。そうなれば、どこかの誰かが兵器を使いたくならないようにする事、そして使われたとしても被害をほとんど受けないようにする事こそが、重要視されるようになるはずだ。

(アカデミズムの営みとしての)科学が社会的な力すら持つようになったのは、現代社会の``知''の重要な部分を担っているからだ。もっと通俗的に言えば、(それが何を意味しているにせよ)「大学教授って頭が良い人なんだよね」という社会的通念だ。それにも関わらず、一部の軍事機関、軍事産業はこの分野においてアカデミズムの下で行われる科学のはるか上を行き、知識と技術をそれぞれに独占しているのが現状だ。
サウザント (2005/08/09(火) 01:07:46)
現在A4 3ページで、1000wordsくらい。まあどうにかなるか。
イントロ (2005/08/08(月) 21:57:32)
よーし、イントロ終了。ここまでで300 words。3000-5000wordsが要求だからまあ普通に書けば適切な文量になるか。少し足りなくなるかも知れないが具体的な計算結果はいくらでも作れるし。むしろここまでに4時間かかってるのに、明日で終わらせたく思ってるのが問題。
ケー05 (2005/08/07(日) 23:16:11)
1年ほど前に、Pioneerが出しているスロットインタイプのスリムタイプDVDドライブのDVR-K04を購入して、PCに初めからついてきた6in1+FDのカードリーダと一緒に5inchベイに組み込んである。これは、5inchベイ一つで全てのメディア読み書きを賄えて、しかも普通の構成に比べてトレードオフ要素がほとんどないため結構気にいっている。それどころか、スロットインの機構は、一度なれるともう普通のトレイローディングには戻れない至高のギミックだ。
#僕がスロットイン機構を取り入れたのは、MAC MINI, iBookWindyのLeptyなんかよりも先行しているのだ。

ただこの構成にした時、スリムタイプドライブと3.5inchドライブを5inchベイに収めるマウンタが意外に高く、けちっち金属版を折り曲げて整形してあるやつを購入してしまった。これがけっこうな曲者で、僕のねじ締めが下手なのもあると思うんだけど、スロットインDVDドライブに歪みが生じてしまうらしく、時々回転しているメディアが接触して危なげな音がする。それをなだめすかして使っていたのだが、先日DVDメディアを買ってきたらコンペア、ベリファイまで通るのに、書き込みが終わったメディアがマウントできないという症状が発生した。ちなみに、ノートPCではマウントできる。他のメーカのメディアも買ってきて試したが全滅で皆同じ症状。

このドライブの問題はもう一つあって、相性が比較的で安く、例えば8倍速メディアを買ってくると一定の割合で最大書き込み速度が2倍速になってしまったりする。このドライブはOEM供給しかしていない物がバルクで一般にも流通しているという形のようで、ファームウェアのアップデートが入手できず、それが何となく嫌だった。

調べてみたらいつのまにかDVR-K05という後継機種が出ていて、こいつはファームアップデートなどのサポートもちゃんとあるらしい。しかも、単にファームが更新されたマイナーアップデートではなく、DVD+R DLが4倍速、さらにDVD-R DLもサポートなどスペックもアップしているらしい。というか、これらのスペックアップって、多分ファームの改良だけで対応していると思うんだけれど、とにかくこれなら購入しなおしてしまってもいいか、と思えた。1万3000円くらいと、5inchの普通のドライブに比べて幾分高い物の十分許容範囲だ。

ラッキーな事に400円でプラスチック製のしっかりした3.5inchドライブ+スリムドライブ->5inchベイなマウンタも手に入って(ただし変換基盤はなし。以前の物を流用)、実際にDVR-K05に交換してみたのだが、音や感触に過ぎないのだけど、スロットイン機構がきびきび動くようになったと感じられ、スロットイン機構が実に楽しい。以前の物が本当に歪みを生じていたのを改めて実感。こういった事って、ちゃんと動いている限りはなかなか気づかないからなー。

んで、問題が一つ。マウンタのネジ穴が合わない。。。結構きつかったので、ネジを使わなくてもちゃんと固定されているけれど、FDのイジェクトスイッチが結構力を必要としたりするので、不安。

まあ何はともあれたった一つの5inchベイが物凄いオーバースペックになってしまった。
ウシ (2005/08/07(日) 21:39:03)
10日に提出の実験学のレポートがもう出来てしまった。この調子で、月火で演習英語クラスの課題も終わらせて水曜日にまとめて提出できたら嬉しいんだけど。

量子コンピュータの本に載っていた量子フーリエ変換のアルゴリズムが、そのままFFTの説明としても素晴らしく明快だったので、ちょっと書いておく

0.j_nとかは二進少数。この説明は、このままだと量子力学特有の表記法になってしまっているけれど、計算過程を恣意的な順番で書いて、ほーら重複しているでしょう?って説明よりもはるかにわかりやすく、一発でアルゴリズムを納得できる内容だと思う。要は指数関数の指数法則が肝なわけだ

イクスペリメント (2005/08/05(金) 00:51:31)
明日提出のレポート課題の一つ目の
「講義で取り扱った内容に関連した物理実験に関する英文の原著論文、解説記事、講演原稿などから1つ選び(講義で紹介したものも可)、実験技術に主眼をおいて、わかりやすく説明せよ。なお論文のコピーを添付すること。」
は、NMR量子コンピュータの素因数分解話にして、どうにか書き終わった。ていうか、まじめに追ってみて確かに実感したのは、あれで15を素因数分解したって言うのは無理があるだろう、って事。賛否両論あったのもうなずける。もっと難しいけれど将来性が望める方法で地道に2bitだ3bitだってやっている人達から見たら、成果として認めたくないってのも確かに分かる。だけど、うん、これやった人達はめちゃくちゃ面白かっただろうなあ、と重ね重ね思う。ちょうど、ぎりぎりの所で要求条件を満たすと言おうと思えば言える、既に十分に整備され成熟した技術がおあつらえむきにあるんだ、そりゃやるっきゃない。

んで問題が一つ。講義に関連しているのだろうか。NMRだし、量子力学だし、どこかで関連していないという事はないと思うんだが。。。いや、まあ、物理学は皆兄弟ってことで。

んで、もう一つの
「日常生活に見られる現象あるいは身の回りの機器の動作原理の中から、物性物理が関連するものを取り上げ、わかりやすく説明せよ。」
もこの書き方だとめちゃくちゃ限定されるよなー、と迷いに迷いつつ、むりやりこじつけてホログラムをピックアップ。いやまあ、今日日お札にだってついてるし。でも物性なのか、これ?だいたい、特に身の回りの機器の動作原理って言われたら、半導体関係か、クーラーのような熱力学っぽいやつしかない気がするのだが・・・。

どうでもいいけれど、「厚い」ホログラムの代表例として「リップマンホログラム」ってのがあるんだけど、リップマンさんってすごくホログラムのかけらもないような昔な人。では何故リップマンホログラムって呼ばれるかっていうと、実はこの人、当時のモノクロ写真技術を利用してカラー写真を作る方法を提案していて、それと「リップマンホログラム」の本質的な仕組みが同じだから。んで、この人「リップマンの自然色写真」で第4回ノーベル物理学賞を受賞しています。始めの方の人たちって、第一回のレントゲン以外ほとんど知られていないと思うので結構トリビア?

このホログラムってのも、初めてやった人達は、そりゃあ楽しかっただろうなあって思う。何しろ、初めて世界に発表されたホログラムが既に
この完璧な出来栄え。一番素朴な方法でも、硬い物体なら何でもばっちり写せてしまうんだから、そりゃ、論文にはっつける写真にも懲りたくなる。
パラダイム (2005/08/04(木) 23:24:41)
要は、パラダイムの転換を殊更に強調して科学史を記述するのって、少年漫画の文法だよね。
ファクタリゼイション (2005/08/04(木) 15:37:31)
実験物理学のレポートで、2001年にIBMの研究チームが行った、NMR量子コンピュータ上でのShorの素因数分解アルゴリズムの実験をネタにしているんだけど、これ面白いなあ。ていうか、やった人達はめちゃくちゃ楽しかったに違いない。高価な玩具で遊んでいるっぷりが何とも言えない。
パラドクス (2005/08/02(火) 02:18:10)
ここまでで書いたように、物理学は基本法則という物を、少なくとも机上の空論の段階では正否をどうこう議論できるような物ではない、という理解を達成してきました。つまり、物理学で基本法則と呼ばれるような法則はどれも、「この世界が実際にその法則に従っているかはいざ知らず、あなたが突然神様に任命されて、この法則に従って世界を作るよう命じられた場合に、特に困ることなく世界を作る事ができる」ような法則なのです。

実は、パラドクスと言われる議論の多くはここを問題にします。それらは、「この世界が実際にその物理法則に従っているかどうかは度外視して、それ以前に物理法則自体が内部に問題点、矛盾を含んでいるから、そもそもその物理法則に従ってどんな世界も作る事ができない」、と議論するのです。

このために、物理学者の多くは、「そりゃあ、今の物理法則が絶対に正しいとは限らないのは確かだけど、少なくとも、そんな基本的な所で間違っているわけはないだろう。大体、物理法則を否定しようとするなら、そんな風に机上の空論で遊んでばかりいないで、やるべきは世界を観察して現在の物理法則で説明できない現象を探す事だろうが。話にならん。」と、この類のパラドクスを云々する主にトンデモ科学な人々を相手にしません。しかし一方でこうしたパラドクスによって例えば相対性理論は間違っていると主張するトンデモ科学な人々は、「こんな基本的な部分にさえ問題を含む理論をこねくり回して行う議論に意味があると考えるなんて、物理学者は馬鹿の集まりだ。」と言うのです。ここにあるのは、やはり深い深い溝です。

こうした状況は、トンデモ陣営の人々の、理解を拒む、というより、広く受け要られている物理法則が否定された方が面白いという感情を最優先する姿勢に負う所が大きいのでしょうが、
#とは言え、物理学が行ってきた、天才達の天才的なひらめきが現在の難しく高度な物理学を作ってきたという宣伝が、奇妙な突拍子もない着想が偶々多くの人に受け入れられて主流派となった結果が現在の物理学理論であるという認識に繋がり、一部の人々の功名心を刺激してこういった姿勢を助長しているという点は無視できません。
同時に、物理学はせっかく、物理法則を「少なくとも机上の空論の段階で問題を含むような物ではない」という理解にまで昇華するよう努力してきたのですから、その努力を教育や教科書の記述に活かす事でこの状況の改善に貢献すべきです。

そして物理学はそれを怠ってきた。物理学の教科書におけるパラドクスの扱いは、大抵の場合各論で何らかの計算をして問題がない事を示す物ですが、読者が何らかの誤解をしているからパラドクスが生じるのであり、一部の読者はこのような説明を読んで、自分の思考を反省する事によってどこに根本的な誤解があったかを理解することができるでしょうが、多くの場合にはそれはできず、結局、その特定の場合に問題が生じない事を納得しても(その納得はおそらく曖昧な物でしょう)、そもそもパラドクスが生じようがない、という理解に達する事はできません。物理学の教科書の責務は個々のパラドクスを``解決''する事ではなく、パラドクスを生じさせる原因となるような誤解に繋がる曖昧な記述を改善する事です。もちろん、きちんとした記述がなされていた場合にも読者が乱雑に読んで勝手に誤解や曖昧な理解をするという事はあるでしょうが実際多くの(必ずしも評価の低くない教科書でも)パラドクスに繋がるような曖昧な記述が見られます。なまじ正しい事を説明しているために、説明が無邪気で、曖昧なものとなり、学習者を苦しめる事になります。

一方で、現在の物理学理論は実は間違っている!とするようなトンデモ科学な文章は、特に本当はちゃんと理解しているのに無理やりそれらしく見えるパラドクスをでっちあげようとしている人間も少なからずいるようで、パラドクスを生じさせる原因たる根本的な誤解をまざまざと描き出すような、先進的な文章すら見られます。

例えば、私が依然に読んだ、「熱力学の第二法則は間違っている!」という記事では、何ページも使って記者が熱力学を否定しようと一所懸命(それ自体熱力学が巨視的法則であるという事を理解していない(ふりをしている)だけの突っ込み所満載の記事だったのですが)頑張っているのですが、短いコラムが載っていて、そこに「熱力学の第二法則は孤立系についての主張だが、そもそもこの世界に孤立系など主張しないから、熱力学の第二法則に何の意味があるだろうか?」と書いてあって大爆笑した事があります。というのも、まず第一に、このコラムの主張がもし正しければ熱力学の第二法則を批判するにはこのコラムだけで十分で、誰かがすごく頑張って書いたであろう本文の記事が全くの無駄になるからで、第二に、熱力学の第二法則を、特に孤立系という特別な場合に関する主張という形(エントロピーは増大する、あるいは乱雑さは増大する)でのみ知っていて、それを無造作に様様な場合に適用するという事は、まさに、熱力学の第二法則に関する混乱の一つの主要な要因であるからです。明らかにこのコラムの筆者は、問題の所在を理解していました。

同じような話として、いくつかの相対性理論は間違っている!文章では、相対性理論では光速度不変の原理を出発点におくが、光を用いて時間と距離を定義するのだからこれは循環論法で意味をなさない!他の定義を用いれば他の結論になる!という主張を目にします。

実はこれは問題意識としては全く正しいのです。ただ、相対性理論を否定する根拠とはならないだけで。

相対性理論における``時間''とは、物理法則を性質良く自然に記述するために人間によって見出される、ある意味で人工物です。これは、非相対性理論的な物理学における``時間''とも、先験的な概念としての``時間''とも明確に区別されるべき物です。

そして、このような人工物を作らなければならなかった理由は、先見的な概念としての``時間''および、非相対論的な物理学における``時間''に対して期待されていたある一連の期待(前者に関しては絶対性等、後者に関しては対象性、相対性等)の全てを満たすような``時間''は、この世界には存在していない事が実験によってわかったからです。
#マイケルソン・モーリーの実験などの光速度一定が確かめたと言われている実験は、まずこの視点から捉えるべきです。

そうなると、私たちの物理学の議論は全く灰燼に帰してしまいそうに見えるのですが、幸いな事に、物理学の``時間''に対する期待を満たす``時間''にいくつかの点で類似した「何か」を構成することができました。これが相対性理論における``時間''です。

相対性理論に関する誤解の多くは、相対性理論における``時間''と先見的概念としての``時間''および非相対論的な物理学における``時間''とを明確に区別していない事による場合が非常に多いのです。

しかし一方で、相対性理論の教科書の多くにおいても、これらの``時間''を明確に区別せずに用いていて、それによって、例えば「運動するロケットの時間は遅れる」といった相対性理論の主張の不思議さを無闇に強調しようとします。おそらくどんな人間も、運動するロケットに積んである「時計」の振る舞いについて、実験をまたずして何らかの結論を下す事はできないでしょう。相対性理論における``時間''(これは時空の一様性を反映していますから、ロケットに積んだ時計の振る舞いと地上に置いた時計の振る舞いの関係を自然に記述します)と先験的な、日常的な概念としての``時間''との読者による混同を意図的に見てみぬふりをする事でこの結論を印象付けようとする姿勢が、誤解とパラドクスを生み出しているのです。

先験的な、日常的な``時間''概念に絶対性が期待されるのは、私たちがこの世界の性質について何らかの先入観を持っているためというよりも、私たち人類が多くの場合単一の時計を参照しているという理由が大きいでしょう。

実際、相対性理論は時間の相対性を明らかにした、と言われますが、明らかに、絶対時間は三秒で構成できます。それには単に、どんな場合にも同一の時計を参照する、と約束すれば良いのです。というか、そのような時計は、売っています

重要な事は、この場合相対性理論的な``時間''の満たすある性質を放棄し、その代わりに絶対性がなりたつようになっている、という事です。そして、このような電波時計を高速度で運動しながら用いた場合でも使えるようにするためには、特別な工夫が必要でしょう。そしてそれは、相対性理論で計算した場合と非相対性理論的な物理学で計算した場合とでは異なる結果になります。このように、「運動するロケットの時間は遅れる」とか「時間は絶対的ではない」とは、相対性理論で通常用いられる物理法則の特定の表現方法に依存した主張なのですが、もちろん、相対性理論は実際に意味のある主張を行ない、それは、実験によって検証可能なのです。

このように、相対性理論の教科書では、何よりもまず相対論以前の``時間''概念に対して物理学が期待していた一連の性質を列挙し、それらを全て満たすような``時間''が存在しない事をいくつかの実験によって言うべきです。ここには、読者が相対性理論のある部分について不思議だ、奇妙だと思う事があるとして、その根本的な要因の全てが集約されています。そしてさらに、相対時間を否定して絶対時間を主張するようなトンデモ科学の議論の混乱を良く整理する事に繋がるはずです。

#絶対時間の否定は、探しても見つからないというような消極的な否定とは異なる積極的な否定であるから、どんな議論も間違っている可能性は常にあるとは言っても、ここに残っている間違いの可能性は、過去の物理学者達が皆、何か根本的な考え違いをしていた、という非常に細い道である。絶対時間と相対時間を対立概念と見なす傾向があるが、絶対時間が否定されて、仕方なくその代替物として作ったのが相対時間である。相対時間が将来的に否定される可能性は常にある。しかし相対時間が否定されるとは相対時間すらも否定されるという事であり、絶対時間の復権を意味しはしない。相対時間と絶対時間を二項対立的に捕らえるのは完全な誤解である。

その上で、物理学にとって好ましい期待を残して他のある期待を放棄して時間の代替物を構成する試みが、ラッキーな事にうまくいった、という事を仮想的な構成方法とともに記述するべきです。このように導入部分の記述を行なう事で、相対性理論の全くの入り口における混乱は著しく解消されるはずです。

さらに言えば、こうした事はそもそも、非相対論的な力学の導入において行なわれるべきなのです。この種のパラドクスは世界が実際にどうなっているかという事を度外視した机上の空論ですから、その根本的な誤解は、相対性理論に限らない場合が多いのです。従って、非相対論的な力学の段階で、慎重で明解な記述を行なう事で、読者が相対性理論を学ぶ時、パラダイムの転換ではなくて、単にそれまで知らなかった実験事実に従う理論の再構築、という姿勢でとりかかれるようにする事ができるはずだし、そうするべきなのです。

ある双子のパラドクスに関する文章では、双子の問題の正しい計算を示した上で「地球とロケットの間には相対性があるのに、一方はずっと慣性系に乗っていて、他方はそうではないと勝手に仮定するのは物理学者の欺瞞だ」と主張していました。相対性原理を「Aから見るとBが動いているけれどBから見るとAが動いている」というような陳腐で当たり前の主張として誤って理解する事は、基本的には理解しようとする姿勢が欠如している人間の責任でしょう(さすがにまともな相対性理論の本で、このような記述は見た事がありません)。しかしながら忘れてはならない事は、多くの教科書において、慣性系が「見出される物」であるという視点が抜け落ちている事です。非相対性理論的な力学の教科書は、時間と空間、慣性系を、「見出される物」として、それを見出す仮想的な手順をきちんと記述するべきです。

相対性理論の導入において、何よりも強調すべき事は実験、観測によって絶対時間が存在しない事がわかったことで、時間が相対的になるとか運動するロケットの時間が遅れるとかは二の次であると書きましたが、同じ事が、量子力学についても言えます。

量子力学では、状態の記述が状態ベクトルになりました。そうであるならば、一番自然な測定とは、状態ベクトルを完全に知る事です。例えば、あらゆる状態ベクトルに一意のラベル付けをして、今の状態ベクトルのラベルを知るとか、あるいは適当な基底を決めておいてその展開係数を知るとかです。

実際には、どんな量子力学の教科書でも、そうは書かれていません。それは何故かと言えば、このような行為が、近似的にすら、(我々のこれまで知る限り)不可能であるためです。そしてその事が、測定を明確に定式化する必要性、動機ともなっています。

この事、そしてこの制限および実際の測定の過程が、他の量子力学の基本法則(特にユニタリ時間発展)により説明され得ると期待されている事、ただしそれは今の所完全には成功していない事をきちんと説明せずに、ただ実験と理論が一致するとだけ言って測定の定式化を(例えば射影測定によって)天下り的に与える事は、深刻な思考停止を招きかねません。しかし多くの、量子力学の数学的な整合性に焦点をあてた教科書では、天下り的な測定の定式化がほとんどです。

#例えば、非クローン化定理、非直交状態の識別不能性といった命題は、もしこのようなクローン化や識別が可能ならば状態ベクトルについての完全な知識を得る事が可能になるという意味で、上の本質的重要な事実の一側面を表していると言えます。つまり、クローン化とか非直交状態は証明されるべき命題である以前に、実験事実であり、(射影測定とか測定演算子による)測定の定式化の下でこれらを証明するという事は、実験事実と我々の測定の定式化との整合性を確かめているにすぎない。「証明」が実は整合性を確かめているにすぎないと言うのは、一般的に言える事ではあるが、特にこの場合この事は重要である。

これは、こうした書籍が、一旦は化学的な視点から書かれた教科書や、波動力学、行列力学時代の教科書によって学んだ、技法的な部分はある程度習得できた物の中途半端に哲学的な良く分からない記述に数多くでくわして量子力学の一貫性、整合性について確信を持つ事ができないような人々を対象として、ヒルベルト空間論に基づいた量子力学の一貫した記述を示す事を目的としているためでもあるでしょう。しかし、単独で十分な情報を持つ教科書たろうとするならば、「どうがんばっても状態ベクトルについての完全な知識を得る事ができない」という実験事実を明示的に述べるべきである。

そしてここでも、非相対論的で古典的な力学の導入において、こうした事を意識した記述が可能であるはずです。
グッドテクストブック (2005/08/01(月) 00:43:25)
私の考える良い教科書の条件とは、
1.議論の依拠する経験的(観測)事実
2.物理現象、物理法則の表現方法、記述方法の整備
3.法則間の整合性の確認(証明)
4.技術的な情報
明確に分離された上で、それぞれ過不足なく明瞭に述べられているという事です。これにより、読者は、そこで述べられている事が、少なくとも机上の空論の段階では、疑問の余地なく正しいという事を了解する事ができ、さらに、それが実際の世界を正しく記述している事を確かめるには何を実験により確かめるべきか明確に理解する事ができます。

なお、これは付加的な要求で、その教科書の位置付けにもよるのですが、少なくとも物理学の理論的でかつ基本的な部分(力学の導入など)においては、

1*.1.の経験的(観測)事実とは、実験方法の具体的詳細には触れず(触れる場合には明確に分離して)、仮想的で非現実的であって良いから、究極的には実行可能である事が明瞭な、簡潔な表現を心がけるべきである

が満たされている事も重要であると思います。これは、読者に、世界についてのどんな(検証可能な)性質を仮定しているのか、明瞭に了解させるためです。

なお、以上の要件を大体(大体、というのは、これらの要件を完全には満たしていないという意味ではなく、私が個々の記述について良い悪いを判定できる程には(というか全然ちっとも)この分野に通じていないからです)満たすような書籍として、私の知る限り、

があります。私は読んだ事がありませんが、この本には

も似たコンセプトで書かれているとの言及があります。

歴史的に言って、確かに物理学では、その理論のある部分に無批判で、余り真剣に検証されない仮定が含まれている事がありました(おそらくは今でもあるでしょう)。しかしそれは、あくまで当時知られていた現象、および実験可能な領域において確かに常に正しかったからこそ許されていたのであって、実験技術の進歩や新しい現象が知られるようになって理論が経験的(観測)事実と一致しなくなれば、速やかに、その新しい経験的(観測)事実と適合する理論を作り上げてきました。そうして否定された物がある種の固定観念から心情的に信じられていたために「不思議だ奇妙だ」という混乱が一時期生まれた事はあっても、物理学は非常に速やかにそれを解消し、それまでの理論のどの部分が「全く以って自明ではない」物であったのかを理解し、それまでの理論にせよ新しい理論にせよ、「少なくとも机上の空論の段階では正否をどうこう議論できるような物ではない単なる一理論」であり、その正否は経験的(観測)事実との整合性によって決着をつけるべき物である、という理解に達したのです。この意味で物理学は常に、「その理論は、そしてその理論によって説明する事ができた現象は、少なくとも不思議でも奇妙でもない」という理解を志し、それは実際成功を収めてきたのです。

#まあ、領域によりますが。というかこう言えるのは私がごくごく入り口にいるためでしょうが。

#さらに言えば、この仮定が依然正しい領域においてはそれまでの理論は正しいという事になり、``近似的に''正しいのだ、と注釈をつけることすらほとんど意味はない。つまり、物理学において革命的な出来事としてよく挙げられる相対性理論とか量子力学の建設は、許容される理論の範囲を広げたのであって、少なくとも机上の空論の段階ではそれまで信じられていた理論を否定して別の理論を支持するという物ではない。この事は、物理学におけるパラダイムの転換を何らかの思想上の議論に応用したいと思った時に、必ず注意しなければいけない事である。我々のこの正解がある特定の物理法則に従っているという事実をある人間が知る事によって特定の考えに至るという事はあってよいだろう(例えば物理法則が決定論的であるために人は罰せられるべきではないと考えたければ考えればよい)。しかし、この世界がその考えを支持するわけでは決してない。

確かに物理学はあるパラダイムに支配されているという側面はあるにせよ、それは経験科学として許される範囲のみに限った事であり、理論が経験的(観測)事実と一致しなくなると、物理学者はそのパラダイムを自覚し、固定観念を捨て去って、新しい理論を作ってきた。この、パラダイムを自己分析し、その支配を振り切って、出来る限り経験的(観測)事実だけを見つめようとする過程が、常に速やかに実行され、目覚しい成果に繋がってきた、という事は物理学の誇りです。

そのために、パラダイムの転換という狭い視野から科学の歴史を捉えて、科学を単にこの時代のこの社会、文化的状況における主流派の思想であると捉えるような議論、あるいは、``科学革命''という思想的な転換点を妄想し、科学のある部分を歪めて用いた議論、さらにはこうした諸々の姿勢を擁護するためにすら、不完全性定理や不確定性原理が自己言及に関する陳腐な主張に貶められて用いられる事、、等に科学者は大抵の場合強い不快感を示します。

しかし一方で、部外者に、あるいはこの分野の入門者に、物理学の理論を説明する場面になると、他ならぬ物理学者自身の手によって、このようなパラダイムの転換が演出されてきました。

例えば、私達は、電車に乗って発車するのを待ちながら考え事をしていて、ふと窓の外を見ると既に電車が動き出していて驚く、という事があります。

つまり、大抵の人間にとって(少なくとも私にとって)、ガリレイの相対性原理は、直感的には、全然正しくないのです。そしてこの例から分かるようにガリレイの相対性原理は確かに私達の日常的経験には反しません。しかし、日常的な経験から、どんな場合にもガリレイの相対性原理が成り立っているとほんの少しでも確信できる人はいないでしょう。ガリレイの相対性原理は、実験、観察、観測による厳密な検証を待たなければ直感とか日常的経験とかによって直ちに正当化できるような代物ではないのです。

#この感覚と実際の世界との齟齬が、大した速度を出しているわけでもなく、大きな加速度をかけているだけのジェットコースターに私達がスリルを感じる理由です。

ところが多くの伝統的な力学教育においては、ガリレイの相対性原理が、私達の直感に良く一致する主張であるかのように扱って、相対性理論に至ってそれが否定される事をもったいぶって匂わせる事はあっても、ほとんど自明の事実として導入します。ほとんどの生徒、学生にとって、ガリレイの相対性原理は、実験事実を待たなければ正しいとも誤っているとも判定できないにも関わらず、このような教育によって、この時点で、完全に人為的に、この固定観念ができあがるのです。そして、それは単に、相対性理論の導入を劇的にするためだけに行われ続けているのです。

物理学は、革命的な転換を経験する度に、どこに勝手な仮定があったのかについて真摯に自己分析してきました。そうして、新しい理論がそれまでの理論と何が違うのかを明瞭に理解し、その新しい理論は「少なくとも不思議でも奇妙でもない」という理解に達するよう努力してきました。当然それは、古い方の理論にも反映されてしかるべきなのです。古典力学の教科書は、読者が相対性理論、あるいは量子力学に繋がるような実験結果についての知識を得ると直ちに、どの部分が変更を受けるのか了解できるような書き方をされるべきです。

そもそも数学的な技術が成熟しているかどうかという点を除けば、物理学の理論の違いというのは、新旧でも、偉い偉くないでも、難易でもなく、適用領域の違いであるはずです。学習者が歴史的な順序をなぞる必要性は数学的な技術という要素以外にあるはずもないのですが、現実には、多くの要素が絡んで来て、歴史的な順序をなぞってパラダイムの転換を受け入れるという学習姿勢に学習者を引き込みやすい状況が作られてしまっています。このような状況は速やかに修正されるべきです。
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