RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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ストラクチャ (2005/07/28(木) 18:42:15)
学問分野は扱う領域と方法論によって分けられると言って良いでしょう。そして扱う領域による分類は、歴史的、伝統的な区分という性格が強く、必ずしも絶対的な物ではないでしょう。

一方、方法論という側面に関して言えば、どんな学問分野も必ず、真実のある部分を諦める事で、他の部分が得られると期待する、という論理構造を持ちます

究極の真実などという代物は、おいそれと私たち人間が至る事のできるものではないでしょう。しかしながら各学問分野は、そこで諦める事をせず、私達の真実に対する期待をある範囲に制限する事で、その下で真実の追究が可能になるだろうと期待できるようにする、という巧妙な方法論をそれぞれに見出してきたのです。

この意味で、学問分野が何をでき(何について言及でき)、何ができないか(何について言及できないか)は、その学問分野が扱えない部分こそが規定するのです。扱えない部分の存在こそが、その学問分野がある部分を扱えるようにしているのです。

自分が特に関わっている分野の能力を課題評価する、自分が余り明るくない分野を自分が理解できる範囲に矮小化して批判する、あるいは無理に歪めて自分達の分野にとりこむ、といった事は全てこの点を理解していない事に原因があるのです。

ところで、当然の事ですが、一人の人間が一つの学問分野にしか関わってはいけない、という事はありません。それどころかそれは多くの場合推奨されるでしょう。そして、そのように守備範囲を広く取る場合、あらゆる事項を、徹底的に、完璧に、疑問の余地のない形で理解する、というわけにはいきません。

しかしながら、広い視野を持っていろいろな事を学ぼう!とただ無邪気に唱える事には問題があります。このような主張が行われる場合、しばしば、学んだ事を自分の中で消化、理解するという事が軽視され、学問を自己の外部にある物と捉えて単に誰が何と言っているのかを知る事のみが重要視されがちです。このような場合、多くの分野から様様な事柄、主張を学ぶという事は、様様な陣営の主張を第三者的な視点から学んで、そのどれについても思考を巡らす事なく単に受用する、言ってみれば``大人の姿勢''に繋がります。ここでは、何が何でも真実に至ろうとする``大人気ない姿勢''は失われてしまいます。

#予断ですが、日本において、そして自然科学に関して限定すれば、自然科学を西洋文化と捉える感覚が未だに残っていてこのような傾向を後押ししているように感じます。

初めから単に教養的な興味から物事を学ぶのならば(つまり多くの人にとって)それでも良いでしょう。しかし、もしあなたが本当に真実に至ろうとする熱望を持っているのならば、どんな分野の、さらにどんな小さな一分野でも構わないので、何かある特定の事項について、完璧で、疑問の余地のない形でそれが正確に何を意味し、何を意味しないか、自分の内部で完結した理解にまで持っていくという経験が必要です。自分の理解が間違っているということはいつだってあるでしょう。しかしながら、誰が言っている、どの本に書いてあるという事とは関係なしに、自分自身が確信を持つ事ができないならば、それに真実の何がしかを期待するという事が、一体どうして可能でしょうか?このような経験こそが真実に仕えるという事を裏付けるのです。

そして重要な事は、このような経験は(多いにこした事はありませんが)一回で十分だということです。このような経験は、(明示的なものである必要はありませんが)真実のある部分を諦める事で、他の部分が得られると期待するというその学問分野の構造の理解なしには実現しません。

そして、ある学問分野のこのような構造を理解した人間にとって、どんな学門分野も、そこでなされる特定の主張や方法論についての個別の批判、反論は当然有り得るにせよ、学門分野とは、その全体が一般論によってまとめて否定されるようなものではないという事が直ちに了解されるはずです。

#真実のどの部分を諦めてどの部分を得る事が望ましいのか、という点についての議論は有り得ますが、これは、否定、非難ではなく、議論なのです。

こうした経験を経ている人間ならば、ここまで問題にしてきたような類の問題がおきることはありません。このような人間は、何らかの主張に触れた時に、盲信するか拒絶するかの二択を迫られるという事にはならないからです。

その代わりに、どのような学門分野も、分野自体としては正当性を云々できるようなものではない、独特の論理構造を持っている、という確信の下で、さらに、どんな主張もほとんどの場合に全く考慮に値しないような、てんで話しにならない思考や議論の下でなされているという事はないだろうと期待できます。そしてそのような確信と期待の下で、ある部分についてはとりあえず本に書いてある、あるいは人が言っている事をそのまま受け入れる、他のある部分については必要や興味に応じてある(必ずしも、完璧でも、疑問の余地のないものでもない)一定のレベルまで理解しようとする、さらに議論に参加するといった事が可能になります。これは決して、人が言っている事、本に書いてある事の盲信ではありません。いざとなれば完全な理解に達する事ができる、という確信の下で、単に人の寿命は有限であるために、深く関わる部分とそうでない部分とを選択しているのです。このような確信の下で初めて、参照と引用という仕組みによって学問がはぐくんできた膨大な知識と思想の体系が正常に機能するのです。

#予断ですが、私は、人類最大の発明の名を冠すべきは「参照」あるいは「引用」であると考えます。明らかにこの発明によって、人は、人一人(蟹の顔文字じゃないよ)の能力を超えたのです。

学究の徒であるために要求される思想や信条はほとんどありません。真実に仕えるという姿勢のみが学究の徒であることの唯一の条件です。思想、信条、立場、専門分野が全く異なっていても、真実を追究する姿勢さえ共有されていれば、その共通の目的意識の下で、例え共通の結論に至る事はほとんど絶望的であっても、正常に議論を行う事ができます。そしてそれこそが学問なのです。

さて、こうした観点から言って、私が注文をつけたいのが、物理学の、特に教科書に分類されるような解説書のありかたについてです。

#ずっと有り得ないくらいの大上段の文章を書いてきましたが、これが一番書きたい事なのでもう少し続きます。
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