RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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グッドテクストブック (2005/08/01(月) 00:43:25)
私の考える良い教科書の条件とは、
1.議論の依拠する経験的(観測)事実
2.物理現象、物理法則の表現方法、記述方法の整備
3.法則間の整合性の確認(証明)
4.技術的な情報
明確に分離された上で、それぞれ過不足なく明瞭に述べられているという事です。これにより、読者は、そこで述べられている事が、少なくとも机上の空論の段階では、疑問の余地なく正しいという事を了解する事ができ、さらに、それが実際の世界を正しく記述している事を確かめるには何を実験により確かめるべきか明確に理解する事ができます。

なお、これは付加的な要求で、その教科書の位置付けにもよるのですが、少なくとも物理学の理論的でかつ基本的な部分(力学の導入など)においては、

1*.1.の経験的(観測)事実とは、実験方法の具体的詳細には触れず(触れる場合には明確に分離して)、仮想的で非現実的であって良いから、究極的には実行可能である事が明瞭な、簡潔な表現を心がけるべきである

が満たされている事も重要であると思います。これは、読者に、世界についてのどんな(検証可能な)性質を仮定しているのか、明瞭に了解させるためです。

なお、以上の要件を大体(大体、というのは、これらの要件を完全には満たしていないという意味ではなく、私が個々の記述について良い悪いを判定できる程には(というか全然ちっとも)この分野に通じていないからです)満たすような書籍として、私の知る限り、

があります。私は読んだ事がありませんが、この本には

も似たコンセプトで書かれているとの言及があります。

歴史的に言って、確かに物理学では、その理論のある部分に無批判で、余り真剣に検証されない仮定が含まれている事がありました(おそらくは今でもあるでしょう)。しかしそれは、あくまで当時知られていた現象、および実験可能な領域において確かに常に正しかったからこそ許されていたのであって、実験技術の進歩や新しい現象が知られるようになって理論が経験的(観測)事実と一致しなくなれば、速やかに、その新しい経験的(観測)事実と適合する理論を作り上げてきました。そうして否定された物がある種の固定観念から心情的に信じられていたために「不思議だ奇妙だ」という混乱が一時期生まれた事はあっても、物理学は非常に速やかにそれを解消し、それまでの理論のどの部分が「全く以って自明ではない」物であったのかを理解し、それまでの理論にせよ新しい理論にせよ、「少なくとも机上の空論の段階では正否をどうこう議論できるような物ではない単なる一理論」であり、その正否は経験的(観測)事実との整合性によって決着をつけるべき物である、という理解に達したのです。この意味で物理学は常に、「その理論は、そしてその理論によって説明する事ができた現象は、少なくとも不思議でも奇妙でもない」という理解を志し、それは実際成功を収めてきたのです。

#まあ、領域によりますが。というかこう言えるのは私がごくごく入り口にいるためでしょうが。

#さらに言えば、この仮定が依然正しい領域においてはそれまでの理論は正しいという事になり、``近似的に''正しいのだ、と注釈をつけることすらほとんど意味はない。つまり、物理学において革命的な出来事としてよく挙げられる相対性理論とか量子力学の建設は、許容される理論の範囲を広げたのであって、少なくとも机上の空論の段階ではそれまで信じられていた理論を否定して別の理論を支持するという物ではない。この事は、物理学におけるパラダイムの転換を何らかの思想上の議論に応用したいと思った時に、必ず注意しなければいけない事である。我々のこの正解がある特定の物理法則に従っているという事実をある人間が知る事によって特定の考えに至るという事はあってよいだろう(例えば物理法則が決定論的であるために人は罰せられるべきではないと考えたければ考えればよい)。しかし、この世界がその考えを支持するわけでは決してない。

確かに物理学はあるパラダイムに支配されているという側面はあるにせよ、それは経験科学として許される範囲のみに限った事であり、理論が経験的(観測)事実と一致しなくなると、物理学者はそのパラダイムを自覚し、固定観念を捨て去って、新しい理論を作ってきた。この、パラダイムを自己分析し、その支配を振り切って、出来る限り経験的(観測)事実だけを見つめようとする過程が、常に速やかに実行され、目覚しい成果に繋がってきた、という事は物理学の誇りです。

そのために、パラダイムの転換という狭い視野から科学の歴史を捉えて、科学を単にこの時代のこの社会、文化的状況における主流派の思想であると捉えるような議論、あるいは、``科学革命''という思想的な転換点を妄想し、科学のある部分を歪めて用いた議論、さらにはこうした諸々の姿勢を擁護するためにすら、不完全性定理や不確定性原理が自己言及に関する陳腐な主張に貶められて用いられる事、、等に科学者は大抵の場合強い不快感を示します。

しかし一方で、部外者に、あるいはこの分野の入門者に、物理学の理論を説明する場面になると、他ならぬ物理学者自身の手によって、このようなパラダイムの転換が演出されてきました。

例えば、私達は、電車に乗って発車するのを待ちながら考え事をしていて、ふと窓の外を見ると既に電車が動き出していて驚く、という事があります。

つまり、大抵の人間にとって(少なくとも私にとって)、ガリレイの相対性原理は、直感的には、全然正しくないのです。そしてこの例から分かるようにガリレイの相対性原理は確かに私達の日常的経験には反しません。しかし、日常的な経験から、どんな場合にもガリレイの相対性原理が成り立っているとほんの少しでも確信できる人はいないでしょう。ガリレイの相対性原理は、実験、観察、観測による厳密な検証を待たなければ直感とか日常的経験とかによって直ちに正当化できるような代物ではないのです。

#この感覚と実際の世界との齟齬が、大した速度を出しているわけでもなく、大きな加速度をかけているだけのジェットコースターに私達がスリルを感じる理由です。

ところが多くの伝統的な力学教育においては、ガリレイの相対性原理が、私達の直感に良く一致する主張であるかのように扱って、相対性理論に至ってそれが否定される事をもったいぶって匂わせる事はあっても、ほとんど自明の事実として導入します。ほとんどの生徒、学生にとって、ガリレイの相対性原理は、実験事実を待たなければ正しいとも誤っているとも判定できないにも関わらず、このような教育によって、この時点で、完全に人為的に、この固定観念ができあがるのです。そして、それは単に、相対性理論の導入を劇的にするためだけに行われ続けているのです。

物理学は、革命的な転換を経験する度に、どこに勝手な仮定があったのかについて真摯に自己分析してきました。そうして、新しい理論がそれまでの理論と何が違うのかを明瞭に理解し、その新しい理論は「少なくとも不思議でも奇妙でもない」という理解に達するよう努力してきました。当然それは、古い方の理論にも反映されてしかるべきなのです。古典力学の教科書は、読者が相対性理論、あるいは量子力学に繋がるような実験結果についての知識を得ると直ちに、どの部分が変更を受けるのか了解できるような書き方をされるべきです。

そもそも数学的な技術が成熟しているかどうかという点を除けば、物理学の理論の違いというのは、新旧でも、偉い偉くないでも、難易でもなく、適用領域の違いであるはずです。学習者が歴史的な順序をなぞる必要性は数学的な技術という要素以外にあるはずもないのですが、現実には、多くの要素が絡んで来て、歴史的な順序をなぞってパラダイムの転換を受け入れるという学習姿勢に学習者を引き込みやすい状況が作られてしまっています。このような状況は速やかに修正されるべきです。
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