RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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パラドクス (2005/08/02(火) 02:18:10)
ここまでで書いたように、物理学は基本法則という物を、少なくとも机上の空論の段階では正否をどうこう議論できるような物ではない、という理解を達成してきました。つまり、物理学で基本法則と呼ばれるような法則はどれも、「この世界が実際にその法則に従っているかはいざ知らず、あなたが突然神様に任命されて、この法則に従って世界を作るよう命じられた場合に、特に困ることなく世界を作る事ができる」ような法則なのです。

実は、パラドクスと言われる議論の多くはここを問題にします。それらは、「この世界が実際にその物理法則に従っているかどうかは度外視して、それ以前に物理法則自体が内部に問題点、矛盾を含んでいるから、そもそもその物理法則に従ってどんな世界も作る事ができない」、と議論するのです。

このために、物理学者の多くは、「そりゃあ、今の物理法則が絶対に正しいとは限らないのは確かだけど、少なくとも、そんな基本的な所で間違っているわけはないだろう。大体、物理法則を否定しようとするなら、そんな風に机上の空論で遊んでばかりいないで、やるべきは世界を観察して現在の物理法則で説明できない現象を探す事だろうが。話にならん。」と、この類のパラドクスを云々する主にトンデモ科学な人々を相手にしません。しかし一方でこうしたパラドクスによって例えば相対性理論は間違っていると主張するトンデモ科学な人々は、「こんな基本的な部分にさえ問題を含む理論をこねくり回して行う議論に意味があると考えるなんて、物理学者は馬鹿の集まりだ。」と言うのです。ここにあるのは、やはり深い深い溝です。

こうした状況は、トンデモ陣営の人々の、理解を拒む、というより、広く受け要られている物理法則が否定された方が面白いという感情を最優先する姿勢に負う所が大きいのでしょうが、
#とは言え、物理学が行ってきた、天才達の天才的なひらめきが現在の難しく高度な物理学を作ってきたという宣伝が、奇妙な突拍子もない着想が偶々多くの人に受け入れられて主流派となった結果が現在の物理学理論であるという認識に繋がり、一部の人々の功名心を刺激してこういった姿勢を助長しているという点は無視できません。
同時に、物理学はせっかく、物理法則を「少なくとも机上の空論の段階で問題を含むような物ではない」という理解にまで昇華するよう努力してきたのですから、その努力を教育や教科書の記述に活かす事でこの状況の改善に貢献すべきです。

そして物理学はそれを怠ってきた。物理学の教科書におけるパラドクスの扱いは、大抵の場合各論で何らかの計算をして問題がない事を示す物ですが、読者が何らかの誤解をしているからパラドクスが生じるのであり、一部の読者はこのような説明を読んで、自分の思考を反省する事によってどこに根本的な誤解があったかを理解することができるでしょうが、多くの場合にはそれはできず、結局、その特定の場合に問題が生じない事を納得しても(その納得はおそらく曖昧な物でしょう)、そもそもパラドクスが生じようがない、という理解に達する事はできません。物理学の教科書の責務は個々のパラドクスを``解決''する事ではなく、パラドクスを生じさせる原因となるような誤解に繋がる曖昧な記述を改善する事です。もちろん、きちんとした記述がなされていた場合にも読者が乱雑に読んで勝手に誤解や曖昧な理解をするという事はあるでしょうが実際多くの(必ずしも評価の低くない教科書でも)パラドクスに繋がるような曖昧な記述が見られます。なまじ正しい事を説明しているために、説明が無邪気で、曖昧なものとなり、学習者を苦しめる事になります。

一方で、現在の物理学理論は実は間違っている!とするようなトンデモ科学な文章は、特に本当はちゃんと理解しているのに無理やりそれらしく見えるパラドクスをでっちあげようとしている人間も少なからずいるようで、パラドクスを生じさせる原因たる根本的な誤解をまざまざと描き出すような、先進的な文章すら見られます。

例えば、私が依然に読んだ、「熱力学の第二法則は間違っている!」という記事では、何ページも使って記者が熱力学を否定しようと一所懸命(それ自体熱力学が巨視的法則であるという事を理解していない(ふりをしている)だけの突っ込み所満載の記事だったのですが)頑張っているのですが、短いコラムが載っていて、そこに「熱力学の第二法則は孤立系についての主張だが、そもそもこの世界に孤立系など主張しないから、熱力学の第二法則に何の意味があるだろうか?」と書いてあって大爆笑した事があります。というのも、まず第一に、このコラムの主張がもし正しければ熱力学の第二法則を批判するにはこのコラムだけで十分で、誰かがすごく頑張って書いたであろう本文の記事が全くの無駄になるからで、第二に、熱力学の第二法則を、特に孤立系という特別な場合に関する主張という形(エントロピーは増大する、あるいは乱雑さは増大する)でのみ知っていて、それを無造作に様様な場合に適用するという事は、まさに、熱力学の第二法則に関する混乱の一つの主要な要因であるからです。明らかにこのコラムの筆者は、問題の所在を理解していました。

同じような話として、いくつかの相対性理論は間違っている!文章では、相対性理論では光速度不変の原理を出発点におくが、光を用いて時間と距離を定義するのだからこれは循環論法で意味をなさない!他の定義を用いれば他の結論になる!という主張を目にします。

実はこれは問題意識としては全く正しいのです。ただ、相対性理論を否定する根拠とはならないだけで。

相対性理論における``時間''とは、物理法則を性質良く自然に記述するために人間によって見出される、ある意味で人工物です。これは、非相対性理論的な物理学における``時間''とも、先験的な概念としての``時間''とも明確に区別されるべき物です。

そして、このような人工物を作らなければならなかった理由は、先見的な概念としての``時間''および、非相対論的な物理学における``時間''に対して期待されていたある一連の期待(前者に関しては絶対性等、後者に関しては対象性、相対性等)の全てを満たすような``時間''は、この世界には存在していない事が実験によってわかったからです。
#マイケルソン・モーリーの実験などの光速度一定が確かめたと言われている実験は、まずこの視点から捉えるべきです。

そうなると、私たちの物理学の議論は全く灰燼に帰してしまいそうに見えるのですが、幸いな事に、物理学の``時間''に対する期待を満たす``時間''にいくつかの点で類似した「何か」を構成することができました。これが相対性理論における``時間''です。

相対性理論に関する誤解の多くは、相対性理論における``時間''と先見的概念としての``時間''および非相対論的な物理学における``時間''とを明確に区別していない事による場合が非常に多いのです。

しかし一方で、相対性理論の教科書の多くにおいても、これらの``時間''を明確に区別せずに用いていて、それによって、例えば「運動するロケットの時間は遅れる」といった相対性理論の主張の不思議さを無闇に強調しようとします。おそらくどんな人間も、運動するロケットに積んである「時計」の振る舞いについて、実験をまたずして何らかの結論を下す事はできないでしょう。相対性理論における``時間''(これは時空の一様性を反映していますから、ロケットに積んだ時計の振る舞いと地上に置いた時計の振る舞いの関係を自然に記述します)と先験的な、日常的な概念としての``時間''との読者による混同を意図的に見てみぬふりをする事でこの結論を印象付けようとする姿勢が、誤解とパラドクスを生み出しているのです。

先験的な、日常的な``時間''概念に絶対性が期待されるのは、私たちがこの世界の性質について何らかの先入観を持っているためというよりも、私たち人類が多くの場合単一の時計を参照しているという理由が大きいでしょう。

実際、相対性理論は時間の相対性を明らかにした、と言われますが、明らかに、絶対時間は三秒で構成できます。それには単に、どんな場合にも同一の時計を参照する、と約束すれば良いのです。というか、そのような時計は、売っています

重要な事は、この場合相対性理論的な``時間''の満たすある性質を放棄し、その代わりに絶対性がなりたつようになっている、という事です。そして、このような電波時計を高速度で運動しながら用いた場合でも使えるようにするためには、特別な工夫が必要でしょう。そしてそれは、相対性理論で計算した場合と非相対性理論的な物理学で計算した場合とでは異なる結果になります。このように、「運動するロケットの時間は遅れる」とか「時間は絶対的ではない」とは、相対性理論で通常用いられる物理法則の特定の表現方法に依存した主張なのですが、もちろん、相対性理論は実際に意味のある主張を行ない、それは、実験によって検証可能なのです。

このように、相対性理論の教科書では、何よりもまず相対論以前の``時間''概念に対して物理学が期待していた一連の性質を列挙し、それらを全て満たすような``時間''が存在しない事をいくつかの実験によって言うべきです。ここには、読者が相対性理論のある部分について不思議だ、奇妙だと思う事があるとして、その根本的な要因の全てが集約されています。そしてさらに、相対時間を否定して絶対時間を主張するようなトンデモ科学の議論の混乱を良く整理する事に繋がるはずです。

#絶対時間の否定は、探しても見つからないというような消極的な否定とは異なる積極的な否定であるから、どんな議論も間違っている可能性は常にあるとは言っても、ここに残っている間違いの可能性は、過去の物理学者達が皆、何か根本的な考え違いをしていた、という非常に細い道である。絶対時間と相対時間を対立概念と見なす傾向があるが、絶対時間が否定されて、仕方なくその代替物として作ったのが相対時間である。相対時間が将来的に否定される可能性は常にある。しかし相対時間が否定されるとは相対時間すらも否定されるという事であり、絶対時間の復権を意味しはしない。相対時間と絶対時間を二項対立的に捕らえるのは完全な誤解である。

その上で、物理学にとって好ましい期待を残して他のある期待を放棄して時間の代替物を構成する試みが、ラッキーな事にうまくいった、という事を仮想的な構成方法とともに記述するべきです。このように導入部分の記述を行なう事で、相対性理論の全くの入り口における混乱は著しく解消されるはずです。

さらに言えば、こうした事はそもそも、非相対論的な力学の導入において行なわれるべきなのです。この種のパラドクスは世界が実際にどうなっているかという事を度外視した机上の空論ですから、その根本的な誤解は、相対性理論に限らない場合が多いのです。従って、非相対論的な力学の段階で、慎重で明解な記述を行なう事で、読者が相対性理論を学ぶ時、パラダイムの転換ではなくて、単にそれまで知らなかった実験事実に従う理論の再構築、という姿勢でとりかかれるようにする事ができるはずだし、そうするべきなのです。

ある双子のパラドクスに関する文章では、双子の問題の正しい計算を示した上で「地球とロケットの間には相対性があるのに、一方はずっと慣性系に乗っていて、他方はそうではないと勝手に仮定するのは物理学者の欺瞞だ」と主張していました。相対性原理を「Aから見るとBが動いているけれどBから見るとAが動いている」というような陳腐で当たり前の主張として誤って理解する事は、基本的には理解しようとする姿勢が欠如している人間の責任でしょう(さすがにまともな相対性理論の本で、このような記述は見た事がありません)。しかしながら忘れてはならない事は、多くの教科書において、慣性系が「見出される物」であるという視点が抜け落ちている事です。非相対性理論的な力学の教科書は、時間と空間、慣性系を、「見出される物」として、それを見出す仮想的な手順をきちんと記述するべきです。

相対性理論の導入において、何よりも強調すべき事は実験、観測によって絶対時間が存在しない事がわかったことで、時間が相対的になるとか運動するロケットの時間が遅れるとかは二の次であると書きましたが、同じ事が、量子力学についても言えます。

量子力学では、状態の記述が状態ベクトルになりました。そうであるならば、一番自然な測定とは、状態ベクトルを完全に知る事です。例えば、あらゆる状態ベクトルに一意のラベル付けをして、今の状態ベクトルのラベルを知るとか、あるいは適当な基底を決めておいてその展開係数を知るとかです。

実際には、どんな量子力学の教科書でも、そうは書かれていません。それは何故かと言えば、このような行為が、近似的にすら、(我々のこれまで知る限り)不可能であるためです。そしてその事が、測定を明確に定式化する必要性、動機ともなっています。

この事、そしてこの制限および実際の測定の過程が、他の量子力学の基本法則(特にユニタリ時間発展)により説明され得ると期待されている事、ただしそれは今の所完全には成功していない事をきちんと説明せずに、ただ実験と理論が一致するとだけ言って測定の定式化を(例えば射影測定によって)天下り的に与える事は、深刻な思考停止を招きかねません。しかし多くの、量子力学の数学的な整合性に焦点をあてた教科書では、天下り的な測定の定式化がほとんどです。

#例えば、非クローン化定理、非直交状態の識別不能性といった命題は、もしこのようなクローン化や識別が可能ならば状態ベクトルについての完全な知識を得る事が可能になるという意味で、上の本質的重要な事実の一側面を表していると言えます。つまり、クローン化とか非直交状態は証明されるべき命題である以前に、実験事実であり、(射影測定とか測定演算子による)測定の定式化の下でこれらを証明するという事は、実験事実と我々の測定の定式化との整合性を確かめているにすぎない。「証明」が実は整合性を確かめているにすぎないと言うのは、一般的に言える事ではあるが、特にこの場合この事は重要である。

これは、こうした書籍が、一旦は化学的な視点から書かれた教科書や、波動力学、行列力学時代の教科書によって学んだ、技法的な部分はある程度習得できた物の中途半端に哲学的な良く分からない記述に数多くでくわして量子力学の一貫性、整合性について確信を持つ事ができないような人々を対象として、ヒルベルト空間論に基づいた量子力学の一貫した記述を示す事を目的としているためでもあるでしょう。しかし、単独で十分な情報を持つ教科書たろうとするならば、「どうがんばっても状態ベクトルについての完全な知識を得る事ができない」という実験事実を明示的に述べるべきである。

そしてここでも、非相対論的で古典的な力学の導入において、こうした事を意識した記述が可能であるはずです。
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