RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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リラティビティ (2005/08/30(火) 02:23:14)
相対性理論の、物理法則を記述する枠組みとしての側面に関して言えば、最も基本的な主張は、物理法則は、上手い事頑張ると、ローレンツ変換に対して不変に書ける、という事だ。この事は決して、物理法則をそのように書かなければいけないという理由にはならない

もちろん、実際にはそのように書くべきであるという理由は技術的な理由から消極的な理由、積極的な理由まで山ほどあり、事実上ほとんど選択の余地はない。このために、ローレンツ不変に書かれた相対論的な理論によって自然に定義されるような重要な意味付けを持った量で日常的に用いられるような概念と大まかに結び付けられるような物を、その概念の「名前」で呼び表し、その概念の物理学的な「定義」と見なすということを物理学は無造作に行ってきた。

しかし、いかに相対性理論的な物理法則が世界の本質的な性質を明快に表す唯一の物で我々が曖昧に用いているある種の概念の正しい定義を教えてくれるようにすら感じられるとしても、どんな物理法則も我々の経験する出来事とその物理法則の記述上での表現との相互的な「翻訳方法」が与えられて初めて意味を持つという事を忘れてはならない。
#もちろん、我々の経験する出来事というものは、どうしても曖昧にしか記述できない。最終的に出来事を数値化するなどして出来事を誰にとっても明確な形で定量化した場合にだけ、理論との厳密な比較ができる。このため(およびおそらくは量子力学の辿った歴史的経緯により)にしばしば「我々の経験する出来事」を「実験結果」あるいは「測定結果」と呼ぶ事がある。しかしながらもちろんこうした用語の使い方は、物理学者が実験や測定という非常に特殊な状況設定にしか興味がないという事ではない。

面倒だから空間1次元(t,x)で考えよう。tは相対論で「時刻」と呼ばれ、xは「位置」と呼ばれる。相対論的な定義では、(t_0,x_0)と(t_0,x_0+a)との(空間的)「距離」とは、aの事だ。そしてもっともストイックには、我々が「距離」を測定していると考えるどんな行為も、それを相対論での表現に「翻訳」し、何が起こるのか議論しなければならない。一般には、我々が値aを得る、という結論には決してならないはずだ。

しかし我々が「距離」を測定していると考えるどんな行為も、大体aを測定しているはずだ、と考えるのは自然な事だ。というのも、ローレンツ不変性の中には、並進対称性と呼ばれる性質が含まれていて、これは大まかに言って、空間の一様性を表しているからだ。つまり、この理論の下で例えばx=0とx=aに関する特徴的な現象が説明されるとしたら、同様の現象が、x=aとx=2aにも、a=2aとx=3aにも起こると考えられる。明らかに我々の距離概念、さらに言えば「物差し」は、この物理学が正しいとすれば、このような現象に由来しているはずだと十分に期待できる

「時間」についても同じ事が言える。砂時計を使う時、我々はニュートン力学の事も相対性理論の事も考えるわけではない。その代わり、いつでも、単に引っくり返して砂が落ち終わるまで待つのである。

そして「時間」と「距離」を定義して初めて「速度」が定義される。この意味で、「光速度一定の原理」とは、正確には「時空の一様性を正しく反映するように時間と距離を取り、それによって速度を定義すると、光の速度が一定な理論となる」と書かなければならない、という事になる。だから、相対論がまだ作られていなかった時期に行われたマイケルソン/モーリーによる物などの数々の有名な実験が「光速度一定を証明した」というふうに書かれるのが循環論法である、というのは問題意識としては正しい。しかしそれでもなおこれらの実験が「光速度一定」の証明として扱う事ができるのは、我々の使うほとんどの物差しや時計は、時空の一様性を反映するようになっているためだ。

こうした考えを進めていくと、時刻とか位置とか速度といった概念を世界が内包している、つまりこれらの単語は神様語で、相対論以前に我々はそれを誤用していた、というような感覚が生まれる。実際こうした類の議論によって、様様な言葉について、もし``相対論が完全に正しいのならば''その言葉の相対論的に自然な定義はこれしかないだろう、という議論が多かれ少なかれ可能だ。これは冒頭に書いた「積極的な理由」の一つと言えるだろう。

そうした精神の下で「光速度一定の原理」とか「運動する物体の時間は遅れる」「運動する物体は縮む」といった「舌足らずな」言い方が出てくる。これらは全て、「相対論的速度」「相対論的時間」「相対論的長さ」について語った文章であるという事に注意しなくてはならない。もちろんこれらの言葉の使い方はある視点からは「自然」ではあるのだが、それでもこれらがどのような現象を言っているのか、という事は必ず明確にしなければならない。

例えば「運動する物体の時間は遅れる」というのは、相対性理論の非常に有名な結論で、相対論的時間は「相対時間」と呼ばれたりする。ところが(このブログおよび旧日記サイトでもたびたび言及したが)、「絶対時間」は三秒で構成できる。単に誰もが共通の時計を参照する、と取り決めればよいのだ。

例えば私の机には、大変優秀な電波時計がおいてある。私がこれを持って(地球の地表に対して)高速で運動しながら、物凄い頻度で電波の受信による時刻合わせを行ったとしよう。私が運動する途中には、(地球の地表に)静止していてやはり電波時計を使っている人々がいる。彼らは私が通り過ぎる時、私の時計と彼らの時計を比べて、それらが常に一致していた、と証言してくれるだろう。

しかしながら私が非常に高速で運動していれば、電波時計は正しく動作するために特別な機構が必要なはずだ。この問題に対して相対論的な力学および電磁気学と、非相対論的な力学および電磁気学は異なった答えを出す。そしてどちらが上手く行くかを私は確かめる事ができる。

あるいは、この「電波時計時間」によって物理学を記述するという事を試みる事すらもできる。この時、「光速度一定の原理」とか「運動する物体の時間は遅れる」「運動する物体は縮む」は全く違う表現となり得る。しかし、検証可能な具体的な主張が相対性理論と同じになるならば、それらは表現が違うだけの同じ理論ということになるし、もしその主張が相対性理論と異なるのならばそれは(実験技術が十分ならば)実験によって決着をつける事ができる。

#しかしこのようにして理論を記述するのがほとんど絶望的に難しく、ほとんど唯一の道は、相対論における各種概念と同等な概念をさっさと導入し、単に意地を張って同じ名前で呼ばないという程度の物だろう。これが、冒頭に書いた「消極的な理由」だ。なお、「技術的な理由」とは、この理由とも関連するが、世界の持つ対称性を適切に反映する事なしには、(あらゆる状況について事細かに記述しなければならないから)物理学の教科書のページ数が無限大に発散してしまうと言う事だ。

それでは、「運動する物体の時間は遅れる」「運動する物体は縮む」とは、正確には何を意味するのだろうか?
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