RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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カンタムフィールド (2005/10/13(木) 00:41:28)
冬学期が始まって、授業にもちゃんと出て生活リズムを昼型にしていたんだけど、そうしたら身体が順応できず。ちゃんと睡眠時間をとっているのに起きている間ずっと眠い。それもまどろむとかじゃなくて寝るべき時にずっと起きつづけていたような、油断していると寝入ってしまいそうな睡魔が、歩いているだけでも襲ってくる。昨日は電磁気の授業にせっかく出たのにひたすら爆睡してしまって、その後も相当にやばい状態だったので、今日は休んで昼まで寝てしまった。

しかし、夏休みが終わってだいぶ進みが遅くなってしまったワインバーグの場の量子論の本で、この機会にベクトル場の項を読み終える事ができた。この時点で既に電磁理論が仄めかされるのには本当に興奮させられる。
僕は、科学の目指す方向性の一つとして、「誰にでも使える」という点を重視している。もちろんそれは、何らかの思想というよりも、自分の能力の限界に大いに依っているのは疑いようがないけれど(つまり、誰にでも使える物でないと、``僕が''使えない)、科学の重要な一側面である事も確かだとは思う。

僕らは天才的なひらめきという奴を無批判に礼賛しがちだけど、そういった閃きという物は、多くの場合、ある背景の下で「当然そう考えるべきなのだ」という理解を伴っている物だし(だからこそその説得力が認められる)、そうでないならば、そう考える事が十分自然なのだという理解を得ようと努力したり、他のより自然で明快な捉え方を模索するのが正しい科学のあり方だろう。

つまり、ある問題が天才の閃きによってのみ解決される難しい問題であっては困るのだ。科学はそこで止まらずその先に進まなければならないからだ。それは閃いた本人にとってもそうだ。どうしてそう考えるべきだったのか本人にとっても分からなければ、それはしばらくの間重要な中心的問題となる。オイラーだってアインシュタインだって、四六時中閃いているわけにはいかないし、四六時中閃いていても、全然足らないのだ。

何でもかんでも数学的に証明すれば良いという物ではないから、科学のどんな分野でも、「自然だ」という言い回しは常に重要だ。だが、同時にここでは慎重さが要求される。自然であるかどうかはバックグラウンドによって大きく変わってしまうからだ。

しかしこうした事は、僕ら学生にとっては全く別の意味を持つ。それは、そういった「自然な」議論は、「簡単」であるという事だ。つまり、「当然そう考えるべきだ」という理解を伴うような議論という物は、単に議論が確かに正しいというだけではなく、「確かにこういう状況にこういう風にしてこれを調べてみたくなるよな」というステップの繰り返しになるからだ。

特に相対論、量子論といった、僕らが講義で習うような物理学の超基本事項は難しい。だけど、これらはあくまで枠組みであって、様様に応用されて始めて意味を持つ。だからこれらが難しくては困る。だから物理学者というものは多かれ少なかれこうした超基本事項について、「実際の世界をきちんと記述できているかは別として、それ自体は別に難しくも何ともない」という理解をしている。その断絶が、トンデモ科学者達とのパラドクス論争がかみ合わない理由だ。

もし、物理学が、物凄い天才だけが特別な才能によって理解できるような代物だとしたら、僕は単に諦める事を選ぶだろう。しかしそうではなく、ある人々は(基本事項については多くの人々が)「それは、少なくとも、難しくも何ともない」という明快でクリアーな視点を持っているというのならば、是非ともその同じ場所に立ってみたいと思う。それは気分が良いだろうし、何しろ、可能であるはずなのだから(だって簡単なんだから)。それが可能な領域は実際にはごくごく限られているはずで、だからこそ研究者という専門職が成り立つのだろうけれど、また、そのような領域は、門外漢として眺めて感じるよりももう少しだけ広いはずだ。それに、残りの領域についても、万人にとって明瞭で俯瞰的な視点を得ようと日々努力が続けられているというのが科学の一側面であるとするならば、その営みにどうにかして参加したいとやはり思う。

ところが、この点について、物理学(に限らないのだろうけど)は、相当に歪んでしまっている。このような明快でクリアーな視点という物は、どうしても、たくさんの知識と経験の積み重ね、そして努力と才能の下でようやく得られる究極奥義のような物として捉えられてしまっている事が多い。

例えば、朝永先生の量子力学の教科書のI,II巻を僕は持っていなくて、そのIII巻になる予定だった遺稿をまとめたという「角運動量とスピン」という本だけを持っているのだけど、この後半が丸々ヒルベルト空間論にあてられている。

続く。
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