RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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ムラシャカイ (2005/10/24(月) 05:14:50)
先日の演習の後、色々あってめちゃくちゃ気分が悪かったんだけど、それについて考えていて「ああ、これがムラ社会という事か」と分かった。今まで、「日本はムラ社会だから~」というような言い方は何となく嫌いだったのだけど、これは典型的なそういうお話だ。
つまり、毎回演習で時間がかかってギスギスしている(まだ二回だけど)。僕の時には特にそうだった。

それは単なる公式の導出に細々と時間をかけてしまったためではある。しかし例えば準備段階で物理的には必須の考察なのだけど計算上は関係ないのでoptional扱いにした事項について質問されたりして、結局やっぱりいい、と言われたのだけれど、やはり当然その疑問は生じるよな、と思って説明したら、やはり別の人が、それに関連する事について質問してきて(いずれもどの項は落としてどの項は計算すべきでその判断はどのようになされているのかという点に関する疑問だった)、そういった事もあってそれなりの「何か」を提供できたのではないかとも思う。

非常に腹立たしかったのは、その先でさらにある点について「それは間違っていないか」と質問された時に、その議論に教官が参加してきて、教官も「それは間違っている」という考えを支持していて、それでしばらく議論が続いたんだけど、僕には自分の議論が間違っているとは思えず(というか、最初に質問した人はそこに登場する量の変換性を通しての疑念だったと思うのだけれど、この教官は、規格化は勝手に取れる物ではないなんて言っていた。固有方程式の解に定数倍の不定性がある事を知らないのか?)ずっと引き下がらなかったら、「これでは授業が成り立たなくなってしまう。だんだん人が帰りだしているではないか。ここに居る学生の大部分はこの議論に興味がないだろうし、この次の問題の答えを知りたいという人がいるかもしれない。後の計算はもう僕がするから下がってくれ」と言われた。

議論に参加するという事は何が正しいか明らかにしたいという意思表示だ。黒板の前に立っている僕が明確な主張を持っていて、それに納得をしてもらえないのならば、対応する以外の選択肢はない。それが教官からの発問であるならばなおさらだ。

もちろん、そのようにして議論が長引いた場合に一部の(特に一人の)学生のために特別に長い時間を消費するわけにはいかないのは当然の事だ。しかしそれならば単に「私はこの点について~~であると確信しているし、いずれにしても君一人のためには、これ以上の時間を提供する事はできない。君が納得できないというのならば~~して対応しよう」と、単にその授業を責任を持って担当している教官として単純に通告すれば良い。あるいはこの場合質問を受けて議論に発展した時点で既に相当の(僕のチェックでは1時間と50分。ついでに言うと一人目の発表は2時間を超えていた(*これは一人目の方が悪いぞという主張ではなく、下で「客観的な基準」という事を言うのに関連しての事)。)時間を使っていたので単に議論に参加せずに発表を切り上げさせるという処置が行われてもそれは当然の事だろう。

しかしそうではなく、大衆正義に基づいて「君が悪だ」と言われた。授業について責任を持っている教官に、だ。

それでも、僕の場合のように、「君は悪だ、クラスにとって迷惑だ」と言われて途中で切り上げさせられたケースは、むしろ良かったケースであると思う。

(以下で書くように先学期の英語クラスではこのような事態は起こりえなかったのだけど、少なくとも先々学期の)演習の時間には相当な頻度でかなりの時間を使ってしまう発表が発生して、いつもギスギスした空気が生まれる。あまりに時間がかかれば、大半の学生は議論を追う努力は放棄して「さっさと終われよ~」というオーラを発散する。

そして、そんな事は、発表者だって分かっているのだ。あるいは、あれだけ時間かけといてあれだけど少なくとも僕はその事を無視できるほど無神経ではない。発表を行うのは一学期間にせいぜい数回で、後は常に席に座って発表を聞いているのだから。単に周りの空気に気づくというだけではなく、単に僕自身も、あまりにも時間をかけている(少なくともそれが準備不足に由来する場合には)発表者には相当に苛立つ。

しかし発表者には実際の所選択の余地は余りない。何故なら、発表の最後まで到達する事によってのみ、終りが来るからだ。もちろん相当に時間がかかってしまっている場合に、端折れる部分を端折って早めに結果を示そうとする事くらいはできる。しかし大抵の場合、それは却って事態を混乱させる結果になるか、そうでなければ、単に最後まで行ったという以上の意味を何も持たない発表になってしまう。そうやってどうにか、僕の場合のように紛糾した挙句に打ち切りというみっともない終り方にならずにどうにか無事に終わったとしても、その場にいる人間の大部分は、とっくの昔に議論を追う事を放棄していて、「やっと終わったよ。あー疲れた。」というオーラを発散させる。教官ですら時としてそうだ。そしてそれは、もちろん、発表者だって気が付いている。結局、発表者自身「やっぱり発表はやだな。二度とやるもんか。」と思う事となるか、そうでなければ、そうした「早く終われオーラ」について、意識的に無頓着になるしかない。

こういった、個々人がそれぞれに不満をどんどん蓄積していきながら、できる限り我慢して、それを解決しようとする具体的行動を取らず、それが限界に達するに至って個人の意見ではなく勝手に想定した大衆正義に則って「悪いのはこいつ(等)だ」と裁定を下し心の平穏を得るというプロセスは、なるほど、これがムラ社会か、と妙に得心がいったのだ。全く勝手に、ある価値観をその辺をふわふわと絶対的価値観が浮かんでいると考えて、それを人に押し付ける、暴力。

上では、「さっさと終われオーラ」について述べたけれど、同じ事は積極的に議論や質問をしている側についても言える。この人々は(僕も比較的こちら側だけど)そのような周りからのプレッシャーに無頓着ではいられないから、「何かを得るためにここにいるんだから質問や議論をするのは当然だ。座って板書をノートに写しているだけのやる気のない奴等の事なんか知るか」というような理論武装をする事になる。いつのまにか、「絶対正義の奪い合い」という訳の分からない事態が生まれてしまっている。

ムラ社会がどうという事はここでは言わないけれど、このような事態の明らかな問題点は、そうした「絶対正義の奪い合い」は、問題の解決には何ら貢献しないという点で、問題解決の手法としてはおよそ最悪の類に属するという事だ。

僕はおよそまともな発表を出来なかった。だから「君が悪だ」と言われてもそれは甘受しようと思う。しかしいずれにしても、それによって、クラスの誰も幸せになるわけではない。発表を聞いていた人達の全て及び僕(甘受するとは言っても、やはり良い気分ではない)は皆、それぞれに不満を抱えたままだ。そして演習クラスについて責任を持っているのは、誰が何と言おうと担当の教官だ。

これは日本の教育のあらゆる場面で言える基本的な問題だと思うんだけど、問題は、「学生がその授業から何をどの程度の範囲で得ようとして良いのか」が全く明確にされていない事だ。それを学生と教師を含めた場の雰囲気で何となく形成される「常識的な範囲」に委ねる事は深刻な責任放棄だ。それはお金を取って教育を提供する学校や教師が責任を持っ提示するべきで、教師は、常にその場を支配する、この点に関する「客観的な基準」として存在すべきだ。その下で初めて、学生は例えば、他の学生にどう思われるかを全く気にせずに、講義をしている教師に質問をする事ができる。なぜならば、教師は、その質問に対応すべきでないと考えれば「後で議論しよう」とか「オフィスアワーに来てくれれば満足の行くまでいくらでも対応しよう」等と言う事ができる。それは常に、毅然として、その場で責任を持っている者として、単に判断し告げるべきだ。そして教師が質問に対応している限り、それはその質問が許されているという事を意味するのだ。つまり、学生が得ようとする事が許される範囲で何かを得ようとしている限り、どのような大衆的な悪意がその学生に向けられようとも、教師と学校はその学生を保護する装置でなければならない。そしてそれは、その範囲を学生が逸脱した時、毅然として「これ以上を君に与える事はできない」と告げる事によって可能となるのだ。

もし学校が何を学生に与えられるのか明確にする事ができなかったなら、学校での学習には何の意味もないと言われたとしても全く仕方のない事だろう。今の大学は、ついでに言えば、学生に何を要求するのかという事も明確にしない。そうやって自ら「学歴には何の意味もない」状況を作り、単位や学位号の意義を危うくしてしまっているのだ。

#どうでも良いけれど、オフィスアワーというアイデアは、義務と権利という考え方の全くそのままの具体例で、教官と学生の関係をそこまで形式的にして良いのかという気はするのだけど、一方、日本の大学におけるこのアイデアの、精神を伴わない全く形式だけの輸入っぷりには、相当に気分が悪い。

英語の演習クラスではこのような問題は発生しなかった。最初の日に相当に長引いた発表があって、その時にすぐに、「時間は決まっていて、一人の人間にいくらでも喋らせるわけにはいかないから、これからは一人あたりの持ち時間を45分とする。もっとちゃんとした場で発表する場合にも、持ち時間の範囲内で発表を済ませるというのは常に重要な事でこれはその訓練にもなる。その時間は完全に発表者の自由であり、どのように使っても良い。何らかの発展的な内容を提供するなり、細かい点について詳細に議論するなり、それは完全に発表者の自由だ。」と全くトップダウン的に告げられた。

僕等は、それまでの演習の時間の、時間をオーバーしても教官は文句一つ言わず付き合ってくれる、ある意味でゆるいアットホームな感覚に慣れていたから、その全くトップダウン的な、しかも、三時間の授業時間を超えては付き合わないという言い方に、クラスが一瞬殺気立ったのを覚えている(多分不満が出なかったのは、教官が英語しか通じない外国人だったからだろう)。

しかし結果的にはそれは非常に良い結果を生んだ。それはその英語クラスへの参加者が、何をして良くて何をしてはいけないかを明確にしたからだ。

実際には、45分を越えての発表は、かなりの幅で、許された。しかしある地点で、その教官は、余計な事は言わずに単に毅然とあるいは冷酷に「ここでストップだ」と告げた。

このために、時間に関する不満は生まれる事はなかった。そのように毅然とした態度で「与える事のできる時間はこれが限界だ」という客観的な基準として教官の存在が機能していたからだ。もちろん、だからと言って持ち時間を過ぎても教官が何も言わないから続けても良いのだというスタンスは許されないが、しかし、45分の持ち時間が近づいたり、それを過ぎてしまったら、単にできるだけ早くどうにか収集をつける事のみを考えれば良く、「クラスに迷惑をかけてしまっている」と悩む必要はない。クラスに迷惑をかけてしまう段階で、教官がストップをかけるからだ。また、その超過を許す時間についても、判断が大きく揺らぐような事はなかったから(ただし始めはゆるく、段段45分を厳格に、という風にはしていたらしい)発表者にも不満はなかった。

また聞いている側も質問をして良いのかという点について悩む必要はない。発表は完全に発表者の自由になると言われているからだ。従って質問に対応するかどうかは発表者の自由だ。発表者が質問に対応してくれる限り質問者は質問をし続ける事ができる。もちろん、余りに時間をとってしまった場合、その点については後で時間があれば議論しよう、等と言って先に進むというような判断を下す事は発表者の責任だ。場をコントロールするのが下手であるならば、質問に対応しているうちに時間が終わってしまうだろう。

今の演習の時間に関しては、発表者の自由になる範囲が暗に制限されているというのも問題だ。

というのも、解答が配られないにも関わらず、この時間に扱う問題の解き方について学生が習得するというのも、この時間の一つの目的らしいからだ。つまり、試験が皆平等に行われるようにするために(何度かそういう風に教官が実際に言っていた)、発表があまり上手く行かなかった場合に、教官が発表の後に改めてフォローを入れるという事をしているからだ。

しかしそのような教官のフォローは例外的という扱いで、しかも常にそれは「問題があったから」フォローする、という態度だから、結局、単なる学生である発表者は、他の全ての学生のそのトピックに関する理解について責任を持つ、という理解し難い状況に置かれている事になる。

それは例えば先ほどの、発表者が質問についての対応を自由に決められる、という状況を阻害する。その場にいる人々が全員納得するか、そうでなければ教官のお墨付きをもらえなければ、先に進めないからだ。もし、教官と見解が食い違うような自体が生じた場合、例え自分が正しいと確信(それが正しい確信が間違っている確信かは別として)していたとしても質問への対応を切り上げて先に進むという事ができなくなってしまう。

英語クラスでは、解答が毎回配られた。僕はこれは、他のクラスでも配っている解答を翻訳している物だと思っていたのだけど、そうではなく、TAに頼んで英語クラスの教官が個人的に用意したらしい。

これは重要な装置だ。つまり、発表者は、他の参加者のそのトピックのその授業で要求されているレベルでの習得に関して、全く責任を持たないという事になるからだ。上手く行かなかった発表は単に反省点を発表者に与えるだけで、成功した発表は、他の参加者の、その授業で想定されているレベル以上での理解に貢献する事になる。

一方、今の演習の時間は、そこで何が得られるのかが全く以って意味不明だ。
教官でさえ、問題を配って担当者が発表するというスタイルを、単に去年もそうしていたという理由から採っているのではないかと思える。何が与えられるのか不明確なまま、台本が隠されている演劇に参加しなければ単位をやらん、というのでは、既に授業の体をなしていない。

配られる問題についての習得を目的とするのならば、学生がその説明をするというのはおかしい。そのような責任を学生が負う事はできないから、単に責任を持って教官が解説すべきだ。学生の発表に問題があった時にフォローするというスタンスでも、その場にいる学生達のそのトピックの習得について正しく責任が果たされるとは到底思えない。

もちろんそれと今の学生による発表という形式を両立させようとしたら完璧な二度手間になってしまう。だから、学生による発表を取りやめて全て教官が解説するか、そうでなければ、毎回標準的な解答をプリントにして配布すべきだ。

実際今でさえ二度手間になってしまっている。特に、大抵の場合上手くいかなかった発表は時間のかかった発表であるから、時間がかかるほど教官がフォローする必要性も大きくなるという非合理にも程がある状況になってしまっている。

だから今、この演習の授業に求める物に関して学生は二分されていると感じる。ある人々は、全く問題にも目を通さないかせいぜい少し手をつけてみるくらいの準備しかせずに、単に解答を知るために(特に試験前の勉強の際に困らないようにノートをしっかり作るために)そこに来ていて、「勿体ぶらずに教官が全部解説するなり解答をプリントにして配れば良いのにどうして解答を出し惜しみするんだ・・・」と思いながら発表者の発表を聞いている。特に僕等のクラスでは相当に先生がかなりの量のフォローを入れているから、これらの人々にとって、発表者の発表の意味はますます薄れていく。彼等にとっては、先生のフォローにまで茶々を入れる人々は全く以って邪魔な存在でしかないだろう。彼等にとって学生による発表は「わざわざ下手な奴に講義をさせている良く分からないスタイル」でしかない。

一方、他の人々は、予め自分で問題をきちんと解いたり、あるいは(どうせほとんどの問題は標準的なトピックで対応する話は何を見ても載っているし、全くのネタ本も大抵の場合すぐ見つかる)本を見て標準的な解答については調べ、ある程度までその問題を理解した上で、疑問が残る不明確な点について自分よりは綿密に準備をしてきたであろう発表者に質問する事で何かを得ようとして演習の授業に臨んでいる。あるいはそれほどきちんと問題に手をつけていなくても、とにかく、本に書いてある解答をそのまま喋るのではなしに自分なりに煩雑な点を整理し不明確な点は詳細を調べて発表に臨んでいる発表者の発表の構成それ自体から自分にはない視点が得られるかもしれないとか(例えば出来る限り手続き的な計算問題に落とす事を信条としている僕にとって、実際に起こる事を調べてみれば用意に納得できる事項についても数学的帰納法により証明を与えるような数学的厳密さを重視したスタイルは常に新鮮だ)、その発表の中に未だ残る不明瞭な点があれば指摘して、直に答えが得られれば自分にとって有益だし、そうはならなかったとして綿密な準備を行ってきた人間との議論はそれ自体有益だろう(あるいは答えが見つかるかもしれない)と考えて、発表者の発表自体に強い興味を持って演習に臨んでいる。彼等にとって学科生の三人に一人は持っているような本に書いてある標準的な議論を全くそのまま、しかも初めから最後まで喋り直す教官のフォローは全く意味がないし、それはただでさえ無くなりがちの時間を、より消費する行為だ。また、彼等にとっては「さっさと終われオーラ」を発する人々や「またあいつらかよ」と後ろで陰口を叩く人々、また質問されてまるでいじめられているかのような態度をとる発表者というのは、我慢がならないだろう。

このようにこの授業に求める物が二分されていて、もっと悪い事には、いずれの人間にとっても授業の半分の意味が限りなく薄い。

このような状況で、いずれかの立場を取るのならば、もう片方の立場を非難して「正義は我にあり」という価値観を形成しなければいけない。前者の立場を取るのならば質問や議論で時間を長引かせる人達に対して「迷惑な奴等だ」と見る事になる。

一方、後者の立場を取るのならば、心の平穏を得るためには、「積極的に議論を行う自分達はやる気のある偉い人間達なのだ」とやはり「正義は我にあり」という価値観を以って、他の人々の苛立ちに無頓着であろうとする必要が生じる。

いずれの場合も、ある頑なで狭量な価値観をそれは絶対的な物だと無理矢理思い込んで採用して精神的な防壁を作る事になる。そして始めに書いたように、それは、問題の解決には何ら貢献しないのだ。

#つまりこれは、何か特別な立場をとるという事がそれが絶対的な価値観であると見なす「奇特な人間」にならないと行えないという事で、つまり、この国にオタクという概念が生じた理由だろう。酷い話だ。

僕等は学校に、何かを得るために通っているのだ。対人関係に関するトラブルはともかく、単に授業で何かを得ようとする時に他の学生との精神的な衝突が生じて余計な精神的負担を強いられるというのは、あってはならない事だ。学校と教師は、学生が何をどのような範囲で得ようとして良いのかを定める客観的な基準として機能し、その範囲に限っては、学生に保証を与え、保護しなくてはならない。

だからいい加減に、この演習の授業は、客観的な基準によって学生が何をどういう範囲で得ようとする事が許されるのか、そして発表者が負う責任と権利について明確にすべきなのだろう。

具体的には、先学期の英語クラスのような、解答を配り、持ち時間を決めてその枠内では完全に発表者の自由とする、というのは一つの方法だろう。その持ち時間としては、教官が面倒を見る義務があるのは二コマ3時間分だけだから、一人1時間が最大限という所だろうけれど、もしもう少し時間がかかっても付き合えるとか、あるいは部屋の使用に関してくらいは便宜を図れるというのならば、学生の側の自主的な決定で決めさせてもらえるのならば一人の学生としては喜ばしい。

あるいは、上の方で、解き方の習得を目的とするのならば全て教官がやるか解答を配るべきと書いたが、さすがにそこまで厳密に考える必要は無いと思うので、本にある標準的な解答は必ずレジュメなりもう少し詳細なプリントなりに含めて発表者が作成し、それを配るという事に決めた上で、発表自体は完全に持ち時間の範囲で発表者がコントロールするというのでも良いだろう。

とにかく、もう、悪意渦巻く空間に身を置く事に僕は疲れたよ。。。

でも、これだけ演習の授業を続けていて誰もその結論に至らなかったわけだし、前回前前回とあれだけ引っ掻き回してこういった事を主張できる物でもないよなあ(それがムラ社会の考え方だと)。はあ。
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