RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
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平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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ミズ (2005/11/18(金) 23:18:37)
しばらく前から、「水からの伝言」が話題になっている。
http://www.hado.com/books/page.htm
簡単に言うと、これは水を凍らせると条件によって美しい結晶ができる場合と、醜い結晶ができる場合があるという話と、そのような結晶の写真を集めた本だ。

書籍としては、水の結晶の精細な写真集という側面が強く、その点に関して芸術的にも学術的にも高い評価に値する。

#雪の結晶は大抵の人は手の平に乗せて見た事すらあるだろう。ところが良く良く人生を振り返ってみると、おそらくどんな人も、容器に入れておいた水が凍る時はいつも文字通り氷になるのであって、美しい結晶を生じる事を見た事はないはずだ。つまり、水の綺麗な結晶を作るというのはそれだけで滅茶苦茶難しい事なのである。nucによれば、水の結晶化に関する先駆的な研究は、戦前に日本の中谷宇吉郎先生によって成され世界的に高い評価を受けているそうだ。

ただ、これらの結晶が美しい形に成長したり、醜い形にしかならなかったりする事にいくつかの視点から「説明を与えている」事が宜しくない影響を生んでいる。

#下で書くけれど、このような行為自体が直ちに問題となるわけではない。あくまで問題はこの書籍やその内容の「扱われ方」だ。

具体的には大まかに言って二パターンある。一つは飲み水の良い悪いが結晶の見た目に反映されるという事だ。

もう一つは水に「ありがとう」のような「良い」言葉をかけたり、そのような言葉をかけたラベルを容器に貼り付けておいて水を凍らせると、前者では美しい結晶ができ、後者では醜い結晶ができるという事。さらに突っ込んで言って、水には感情があり、それが結晶という表情として現われる、という事だ。

少なくとも科学が積み重ねてきた知識に照らして言う限り、これらの因果関係は相当に怪しい。上で書いたように水の結晶を成長させるのは繊細かつ難しい。既知の研究を参照する限り、結晶の形は過飽和度と温度によって決まってしまうが、一方その形はこれらの因子の違いに対し敏感に応答する。これらを精密にコントロールする事は非常に難しく、実際に彼等の実験を見るとこれらは全くコントロールされていない(凍らすために冷蔵庫に入れているという意味である温度におかれているという程度)。つまり、これらの知識に照らして言う限り、全くランダムに様様な形の結晶が得られているところで、何らかの先入観によって勝手な意味付けをしている可能性が高く、その可能性をまずは排除しなければ科学的な主張とは言えない。

しかしもちろん、何かを言う時に、それを科学的に裏付けなければいけないという道理はない。「~の湧き水を使ったらこんなに綺麗な結晶ができました。」とか「ありがとうと言葉をかけながら結晶を作ったらこんなに美しいのができました。」と言う時に、「やっぱり綺麗な水からは綺麗な結晶ができる物ですねえ。」とか「水にも心が伝わるんですねえ」とまで言ってしまう事には何の問題もない。メルヘン大歓迎である。このように言う時、誰も「綺麗な水を使うとほとんどいつも綺麗な結晶ができ、汚い水を使うとほとんどいつも汚い結晶ができる」という一般的な主張を行おうとしているわけではないからだ。むしろそれは「良い筆を使うとやっぱり良い字が書けるなあ」というような験担ぎのような感覚にすぎない(ただし弘法大師と、僕のような問題外の素人でなければ筆と字の間には普通多かれ少なかれ因果関係はあるだろうが)。興味が向いているのがどのようにすれば綺麗な結晶ができるかどうかではなく、単に綺麗な結晶が見たいという所であるのならば、このような無邪気な因果関係の主張を批判する事はナンセンスだ。

とは言え実際には、「水からの伝言」の著者である江本氏は、科学的な実験からこのような結果が得られたというような姿勢をしばしばとっていて、それによって「良い水や良い言葉をかけた水からは綺麗な結晶ができる」という事が、良く確かめられた、そして(少なくとも彼等の方法を用いれば)いつでもそのようになるという風に言っている。
#例えば小学校に講演に行って子供達に水に祈りを込めてもらい、ご丁寧に祈りを込めてない水も持って帰って、祈りを込めた方からは綺麗な結晶ができたという結果を示している。(http://blogs.yahoo.co.jp/hiroasakawajp/4512950.html)

つまり、江本氏は「無邪気な因果関係の主張」と片付けてしまう事はできないくらいの「強い主張」を行っている。そしてそれが科学的な実験手法によって良く裏付けられているという態度をとって、その主張にもっともらしさを加えている。ところがそれにも関わらず、江本氏は科学的な検証に耐え得るような実験、試験を行っていないし、行おうともしていない。

良く(大槻教授のような研究者がいるために、そして実際そういう研究者は多いのだが)誤解される事だが、本当に誠実な姿勢を持っている自然科学の研究者がある「科学っぽい主張」を「擬似科学」「似非科学」という時、それは科学の通常の知識に反する主張を行っているためではなく、「科学っぽさ」を後ろ盾にして自分の主張をもっともらしく虚飾しながら、そのくせ科学が慎重にそして誠実に洗練させてきてそのために科学の結果に一定の注意が払われるに至った「科学の方法論」を全く無視している事だ。つまり、科学の権威という美味しい所だけを労せずして利用しようとする所こそが問題となるのだ。

特に前者(水の綺麗さと結晶との関連)については、それが、「綺麗な結晶ができる水は綺麗で美味しい水だ」という水質判定法に無造作に拡張されてしまった場合には明白に問題になる。根拠が不明確なままに、商品として売られている多くの「水」の優秀さを立証するために無造作に流用されてしまうだろうからだ。例え著者がそう意図していなかったとしても、全く無造作に、そして広範にそのような流用は行われるだろう。それにそのような意図を著者自身が持っているような雰囲気が随所から感じられる(というか著者は水で商売をしている会社だ)。

そういった事情から、著者が書いているような怪しげな因果関係それ自体が、とても信憑性が薄いとして批判されてもいる。

ただそうは言っても、著者の擬似科学、似非科学的姿勢だけが問題ならばここまで多くの人が問題意識を持つには至らなかっただろう。この手の話題は現代では、どこを向いても氾濫しているのだから。それに、先にも書いたように、結晶の美しさに興味のベクトルが向いている時に通常の科学的知識から信じ難いような因果関係を夢想したからといって直ちに批判されるものではない。

「水からの伝言」が大きく問題にされるようになったのは、二つ目の点、つまり水に良い言葉をかけてやると綺麗な結晶ができる、さらに突っ込んで水は感情があって結晶の形として様様な表情を見せるという話が、いくつかの学校で道徳の授業で用いられたという事だ。
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