RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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ミズツー (2005/11/19(土) 02:40:50)
水からの伝言に書かれている「水に良い言葉をかけながら凍らせると綺麗な結晶ができ、悪い言葉をかけながら凍らせると醜い結晶ができる」という内容が小学校の道徳の授業で使われた。この事についてネットの一部で広がった批判は、科学的な知識を良く持っている人によって行われただけでなく、そのような授業を受けた必ずしも専門的知識を持たない保護者からの問題提起も少なからず含まれていた。結晶の成長条件がどーたらという事以前に、このような授業それ自体が何かおかしい、と多くの人が感じたのだろう

そのような授業は、
http://n-blieve.hp.infoseek.co.jp/mizukessyou.htm
http://www4.ocn.ne.jp/~yoshirin/seimei/mizu/mizu_dengon.html
などで見る事ができる。

批判の方については、
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?mode=category&aim=A5CBA5BBB2CAB3D82CBFE5A4ABA4E9A4CEC5C1B8C0
http://atom11.phys.ocha.ac.jp/wwatch/misc/comment_misc_06.html
この辺が中心になっている。

ところで、ここでは挙げていないようなもっと多くの人たちがこの問題を取り上げているが、こういった場合周辺に行く程無造作な言及をしていて、特に、「科学的事実ではない」という点に終始してしまっている場合が多い。

ところで一方、上記のサイトをきちんと見るともう少し広い視点から、こうした道徳の授業が行われる姿勢自体を問題にしている事がわかる。

歴史的に見て、自然科学がある特定の主張の正当化として用いられてよろしくない事態を生んだという例はたくさんある。その中には科学的事実とは認められない事によってある主張や思想が正当化されるというケースもあった。だが、科学的に正しいと認められるような事実が、やはり一定の多くの人達の間で十分に最もだと認められるような主義主張の正当化として用いられ、その実良く見てみると両者には何の関係もないというケースの方がより大きな問題を生じてきたのは明らかだ。

つまり問題は、ある主義主張は、単に「私はこう思う」と言ってしまえばそれで十分な主張であるにも関わらず、そのような勇気がなくて付加的な理由付けを必要とする脆弱な精神だ。そのような精神は権威的な正当化を欲するが、そのくせその主義主張が本当に正しいのか間違っているのか明らかにしようとしているわけではない。結論は初めから決まっている。だから都合の良い、そして見た目の良い部分だけをつまみ食いし正当化のために濫用する。

このようなおかしな依存関係が広く流布してしまうと、両方に悪い影響が出る。根拠とされた科学的事実はいつのまにやら特定の主張の正当化に適するように歪められ、単なる権威としての存在だけになってしまう。

一方、単に「私はこう思う」と言う事が十分に許されていたはずの主張は、いつのまにか、その歪められた科学的事実と一蓮托生になってしまう。ある主張の論拠を特定の科学的事実に求めるという事は、その主張の正しさをその科学的事実の正しさに委ねるという事だ。これは本来とても勇気のいる行為だ。元々主義主張の正しさを科学によって明らかにしようという動機などこれっぽちもなく、単に脆弱な精神の安定を得るために特定の広く認められている科学的事実と自分の主張を無分別に結びつけたのだとしても、いったんそれが行われてしまえば、その科学的事実が正しいか否かに自分の主張の正しさを委ねたという事になってしまう。当然、その科学的事実はそんな事を言っているのではない、という内容の歪みについての批判はされるだろうし、そうではなくとも、どんな科学的事実も後に否定される可能性はある。そうなれば一点、正当化は大きなダメージとなる。

だから、件の道徳の授業で問題なのは、そこで取り上げられている「水からの伝言」に書かれている内容が正しいのか間違っているのかという事以前に、倫理や道徳について語る時に蛇足の理由付けを必要とする心の弱さだ。「友達が嫌な思いをするから汚い言葉を使わないようにしましょう」とただそれだけを言う事すら何らかの理由付けなしにすらできない教師がいるという事が問題なのだ。そのような正当化のギミックが必要ならば勿体無いお化けやその仲間達を呼ぶべきだ。科学にはそのような仕事はできない。いずれにしても、小学生に対する教育としてそれは全く不適切だ。

上記菊池さんや、天羽さんのページでは、これらの点について非常に重点が置かれている。ただこの問題について議論になると、やはりどうしても水の結晶に関する実験の正当性についての議論に比重が移ってしまうようだ。

それに、こうした全く一般論として姿勢を批判するというのは、相手を丸ごと否定する事に繋がり、(相手がそのことに納得して姿勢を改めるのでなければ)議論が展開されるという事がなくなって実効的な成果が上がらなくなるという面もある。そういうわけもあるのだろうけれど、いずれも、水の結晶の実験それ自体についても詳細に言及している。

しかし、道徳の授業で水の結晶の話をするというのは言ってみれば論点のすり替えであって、水の結晶の話それ自体を批判するというのは、この道徳の授業を批判するという事に限って言えば、その論点のすり替えに乗っかるという事だ。そうなると、例えば将来的に本当に水の結晶とかけられた言葉の間に対応があるという事が広く確かめられるに至った時、「それ見たことか。常識に囚われた盲信者が。ばーかばーか。」と言われかねない。

#過去の実験ではそのような事は認められなかったにも関わらず、未来に、水が感情を持ち、それどころか知性を持っていて人間と会話すらできる事が明らかになるかもしれない。そうしたら聞いてみよう。「どうして昔は喋らなかったんだい?」「ああ、その頃は寝ていたんだよ」「がーん」

一方僕のこのサイトは、自分の中に溜まっていって淀んでしまうたくさんの思考を、どんどん垂れ流していくアウトプットの場として位置付けている。要は自分が正しいと思った事を書く以上の目的は全くない。

そういうわけで、この道徳の授業がどういう点でよろしくないのかという事について、もう少し書いてみよう(とは言え上記二つのサイトと大体同じ内容になると思うけれど)。
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