RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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ミズファイナル (2005/11/19(土) 04:53:07)
さて、二つ前の記事で、本来互いに関係のない科学的(あるいは科学っぽい)主張と、何らかの主義主張や思想を結び付けてしまうと、それらは相互に悪影響を及ぼしあって一蓮托生の状態になる、と書いた。
今の場合科学的実験事実として提示されているのがまともな科学的方法論に従って行われているとは到底認められないから、科学側へのダメージは少ない(ただしこのような道徳の授業があまり広まると大本の「水からの伝言」の江本氏が却ってにっちもさっちも行かなくなる可能性はある)。看過できない問題は、このような、「汚い言葉を使うのはよしましょう。お互いに気持ちの良い言葉を使いましょう」と自信を持って生徒に主張できない脆弱な精神を持った教師達によって、それ自体は(もちろん倫理観だから特定の領域においてだけの事ではあるが)全く正しいと認められるような「汚い言葉を使うのはよしましょう。お互いに気持ちの良い言葉を使いましょう」という主張それ自体の正当性が不当に損なわれかねないという事だ。

一部の生徒や、また保護者の中にも少なからずそういう人がいるようだが、綺麗な言葉をかけた結果として得られた水の美しい結晶の写真を見て、そこに大自然の美しさ、神秘を感じ、その感動、驚きという印象深い経験が、「汚い言葉を使わないようにしよう、綺麗な言葉を使おう」という考えをより強固にしたとしたら、例えそこに論理的な繋がりがないとしても、写真を見せたり話をした目的がそのような考えを育むという事にあったなら正しく目的は達成されたと言えるだろう。

問題は、少なからない(実際の所大部分は)生徒は、そうはならないという事だ。

例えば江本氏が小学校で講演を行った際、その最後に子供達皆で水に祈りを込めて、それを祈りを込めていない水と一緒に持ち帰って、前者の方が綺麗な結晶ができるという事を示すというパフォーマンスがあったそうだ。

このような場合子供達の興味はどこに向くか?それはほとんどただ一点、実際に祈りを込めている水の方が綺麗な結晶ができるという事が起きるのかどうか、その一点につきる。そして実際にそうなったとして綺麗な写真を見せられれば、その不思議で神秘的な結果それ自体に対して驚いたり感動したりする。しかし、それだけだ。彼等の興味はそれが起きるかどうかにこそ向けられていたのであり、それが本当に起きるのを目の当たりにして喜んで、それで終りだ。

現代では不思議な事、驚くべき事は山のようにある。それらは一時的な刺激でしかなく、それらから積極的に思想や主義を読み取るなんてことをする事はほとんどない。劇的で神秘的な結果を強調すればするほど、それは単なる魔術、奇術としてしか興味を持たれなくなり、それを行う人間は、魔術師、奇術師としてしか評価されなくなるのである。

勿体無いお化けとして機能できるのは勿体無いお化けまでである。そのリアリティーのない子供だましっぷりが、その後ろにある「食べ物を粗末にしない」という思想を自然に透けて見えさせるのだ。子供だましのたとえ話に留まらなくなればその機能はなくなる。ターミネーターやエイリアン、ゴジラで脅かしても躾になるわけがない。

これは科学についても言える事だ!とこの文章の流れからは外れるが強調しておく。

美しい結晶、それを根拠にして「良い言葉を使いましょう」と言っても、その根拠である水についての実験がよりセンセーショナルになればなるほど、「汚い言葉を使うのはよしましょう。お互いに気持ちの良い言葉を使いましょう」という主張自体には注意が払われなくなる。それは、江本氏の評価についても言える事だ。江本氏の支持者がこれほどまでに増えた今や、彼等が見出す江本氏の価値は(一部の真摯な信奉者を除けば)、彼だけが特定の条件下で綺麗な結晶ができ他の条件下で醜い結晶ができるという実験を実施できるというただその点に収斂していって、江本氏が何を言って何を書いているかにはほとんど注意を払われなくなるだろう。

#奇蹟を顕せない教祖と奇蹟によってしか信仰を保てない信者達はいつでも悲劇を引き起こす。ここにあるのは、それと同じ構造だ。

もっと問題なのは、判断基準のお水様の反応へのすり替えが引き起こす本末転倒、つまりお水様の反応次第で、全く異なる考えが支持されてしまいかねないという事だ。

http://www4.ocn.ne.jp/~yoshirin/seimei/mizu/mizu_dengon.html
この記事の、最後にある「子供の感想」の(5)にある、「来年の自由研究でやろうと思いました。」は注目に値する。そもそも、このような話を聞いて、自分で試してみようという方向に考えが向かうのはとてもとても素晴らしい事だ。来年度の科研費を全部この子にまわす事を真剣に提案したい。

さて、この子の自由研究はどのような結果を得るだろうか?まず、まず間違いなく結晶を作るだけで相当に苦労するだろう。というか、少なくとも肉眼で観察できる結晶はそう簡単にはできないはずだ(江本氏のグループも、顕微鏡で写真に撮っているそうだ)。

するとこの子はどう考えるだろうか。「僕の言葉には真心がこもっていないんだ。だから水に届かないんだ。」と考えるとしたらあまりにひどい話だ。水に届かなくとも人には届く。

#ところでhttp://www.hado.com/emoto/emoto-top.htmここで、「水に選ばれた人、江本勝」という表現が出てくるのだけれど、、、江本氏だけが水の神秘に触れる事を許されたとか言う落ちをつけられそうでアレだ。

あるいは、「死ね、馬鹿」という言葉を散々浴びせた水が美しい結晶を生じたとしたらどうだろうか?それは先生の言葉に対する疑念を生じる。そこで「じゃあ僕は「死ね、馬鹿」という言葉を使おう」と考えるくらいの素直さがあれば、せいぜい喜劇ですむだろう。しかし「汚い言葉を使うのはやめましょう、綺麗な言葉を使いましょう」という倫理観に基づく主張を、否定するのではなくそのような主張は無意味であると見なすようになったとしたら、そのような規範の消失は悲劇と呼ぶしかあるまい。

ある思想や主張の根拠を科学のある部分に求めるという事は、その思想や主張について迷いがあって、科学がある問題についての探究の果てに出す答えをその判断基準としようと考える十分な理由があって、その上で科学がどちらの答えを出すかに真剣に興味を持ち、その結果に判断を完全に委ねる覚悟がある場合にのみ可能になる。

しかしもしもそのような覚悟なしに、先に結論ありきの乱雑な正当化として科学を持ち出すとしても、それを行った瞬間にその主張の正否は科学のその部分の結果に完全に委ねられた事になってしまう。それは実はその主張を行っている当人自信にとって非常にリスキィな事だという事を忘れてはならない。

んで、とにかく、こういう道徳の授業というのはひどすぎる。もし行われたら保護者は抗議すべきだと思います。
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