RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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パラダイム (2005/11/25(金) 02:45:18)
コメントへの返信の代わりに。前後編の予定(たぶん具体的な反論は後編に。これは準備)。

昨日書いた事は、理解の深い人浅い人の対立という単純な話ではない。

パラダイム論者は以下のような事を言う。
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科学ってのはすごく正しいという風に捉えられているけれど、実際には教育を通じてパラダイムを継承し、そのパラダイムの範囲でのみ「パズル解き」研究を行う。それで上手く行っている間は誰もそのパラダイムに疑問を挟まないが、どんなパラダイムも無限の期間の使用に耐えるものではなく、一定の期間が経つと必ず綻びを見せ、すると他のパラダイムが台頭し、偶々広く受け入れられた物が次の一定期間のパラダイムとしての役割を担う(パラダイムシフト)。
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で、科学者はこういう見方に対して
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確かにそういう面がある事は否めないが、科学はそうではないように最大限の努力を行なってきた。科学は何が真実で何が真実でないかを客観的に判断する方法を研鑚し積み重ねようと努力してきて、その結果は理想的で完璧というには全く程遠いのは確かだが、それでも一定の成果を生んでいて、真実の何らかの側面を教えてくれると期待して良い程度の誇れる体系になっているのだから、そこをこそまずは見て欲しい。
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と言うわけだ。

一般に、一定の伝統や歴史があって時代の流れに耐え抜いてきた体系Aという物に「AはBだから問題だ」と言う時、「確かにAにはBという問題がある。しかしAはBだから問題であると言うより、Bである事はAにとって最大限問題であるから、実際の所AはBについてのエキスパートなのである」という反論が(Aが全くもってどうしようもない体系であるというのでなければ)常に可能だ。

例えば統計手法という物は多かれ少なかれ一般性に乏しく、無造作に扱えば妥当でない結論に導かれてしまい、それが何を意味するかについては常に慎重かつ批判的に吟味しなければいけない。だけど、だから統計学に意味はないというのではなく、そのような吟味の仕方を最も良く教えてくれるのは誰かと言えば、それは疑いようもなく統計学自身だ。もちろん統計学は完璧な答えを教えてくれるわけではないが。

あるいは、最近のきなくさい新興宗教を見ていると、宗教則神秘主義即いかがわしい、と見なしてしまいがちだけれど、実の所まともな宗教は必ず、神秘主義の適切な扱い方を心得ている物だ。科学ならば、それが科学的探究の放棄を意味しはしないかという問題はあっても、神秘主義に対してとりあえず「非科学的だ」と言ってしまって顧みなくてもほとんど誰にも文句は言われないだろう。しかし、宗教ならば多かれ少なかれ神秘主義と付き合わないわけにはいかない。そしてまともな宗教ならば必ず神秘主義が時として破滅的な結果をもたらす事も知っている。だから良く広まっているどんな宗教も、strictには、神秘主義的なあれこれに対しめちゃくちゃ慎重で厳格な姿勢を持っている。僕らが普通触れるこれらの宗教の姿は、そういった厳格な姿勢からある程度人口に膾炙した姿で、宗教に対する大衆的なニーズに応えて一定のサービスをするが、その範囲は常に慎重に選ばれている。

さて、科学に対するパラダイム論的な見方と、それに反駁する人との間での論争が噛み合わないのは、これと同じ構造があるからだ。

つまり一方は「AはBだから問題だ」と言って実際上の問題を指摘している。

他方は「確かにAにはBという問題がある。しかしAはBだから問題であると言うより、Bである事はAにとって最大限問題であるから、実際の所AはBについてのエキスパートなのである」と言って、理想的で仮想的なBという問題を含まないAを想定し、それに近付こうとする努力が存在している事を指摘しているのだ。

で、こういう構造があればこそどちらも間違いとは言えず、強いて判断基準を言えば、後者が言っている「努力」の程度だが、少なくとも東大の物理学科に身をおく物の実感としては、ちょっと少なすぎはしないか、と感じられるのだ。もちろんそれは全くないというには程遠いのだが、ちょっと地に足がついていない部分が多すぎるように感じられる。

おそらく後者の主張がそれなりに正しい(だから成果が上がっている)のは、パラダイム・シフトの部分が常に特別に様々な事項を批判的に考えられる人々、特別に様々な問題意識を持てる人々、そして特別に能力のある人々によってなされるためだろう。そのために、パラダイム・シフト後のパラダイムは、どれがパラダイムとして採用されても良い中で偶々その時代の多くの人々に受け入れられただけというよりはいくらかなりともマシな物になっていると期待できる。相対論とか量子論とかの劇的に登場した新しい理論は(しばしばニュートンをアインシュタインが打ち破ったとか、アインシュタインと量子力学の対立構造を強調するような見方がなされてしまうが)、それ以前の理論を破棄して新しい理論が採用されるというよりも、それ以前の理論をも含むより包括的な視点が与えられ、それ以前の理論で何のために何が上手く行かなかったのかを明確に明らかにする。つまりパラダイム・シフトは過去を捨て去るのではなく、過去に対する徹底的な反省を伴う。

科学理論を偶々ある時代ある領域で受け入れられている特定の価値観、考え方=パラダイムとして捉える事に対する一つの明確な反論は、この、科学理論の登場順序に任意性があるとは考えがたい事だろう。つまり量子論の次に量子論が否定されて古典力学がやってくるというような事は考え難い。この事に関してはさらに、科学の、普通パラダイム・シフトと呼ばれるような出来事が、技術の進歩によってこの世界で起こる事についての新しい知識が得られるようになってから、ほとんどタイムラグなしに起きているという事を指摘しておくべきだろう。実の所その事こそが、科学の誇りだ。その事実の下では、科学の方法それ自体こそが科学の成功の理由なのだと科学を賛美する事も多かれ少なかれ許されるだろう(もっとも、そう考える事が過去の個々の偉人達の業績をおとしめるわけではない)。

しかしまた、パラダイム論の言葉でいう通常科学の期間について言えば、その見方は当たっていると言わざるを得ない、少なくともそれが当たっていると考えて、そうではないように努力しなければいけない。現状の科学は、パラダイム・シフトの時代の偉人達の真摯な反省的思考と、現役の研究者の中のごく一部の誠実な姿勢を持つ人々によってかろうじてその正当性を維持しているにすぎない。


ところで、パラダイム論に関してはもう一つ重大なすれ違いがある。それは、科学者にとってはパラダイム論とは科学を貶し批判する論調以外の何者でもないのに対し、パラダイム論が主張される時(元祖のクーンの意図はいざしらず)それはしばしば科学に対して肯定的な姿勢を取ろうとしてなされるという事だ。
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コメント
この記事へのコメント
2005/11/27(日) 04:46:29 |nuc|URL | #wr.8gKW6[ 編集]
うにゃうにゃ。
だから、この問題に関してはパラダイム云々はどうでもいいんですよ。
どうみても学部レベルの知識すら危うい人が「科学を分かっているもの」として教育にあたっているところなんです。「科学を分からないもの」が「こうではないのか」と言う分には理解しあおうとしするにしても、特に文句はない。
実際、科学者が背景にもつ自然への考え方は時代ごとの知識の深遠によって変わるだろうよ。
まあ、待ちます。
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