RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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(2005/11/28(月) 02:37:54)
パラダイム続き。ずいぶんと長くなった。もう少し続きます。
ある種の問題意識があって一般性も持たせてだらだらと書いているのだけど、この問題に関する限り、立花隆はジャーナリストだ、の辺りから読めば意思の疎通には十分な気がしてきた。多分僕が何か勘違いしているとしたらこの辺、つまり講義の成立経緯(全く想像で書いている)とnucの意図している事だと思うので。

科学に対するパラダイム論的な見方には確かに一定の正当性がある。だがそれが爆発的に広まったのには明白な理由がある。それは科学がパラダイムである事が多くの人にとって好ましかった事だ。

それは第一に、自然科学に関する専門的な知識を持たない者には扱えない領域が爆発的に拡大し、非常に多くの場面で自然科学だけが正しさの指標として注意を払われるようになっていった状況を劇的に転換し、科学を数多くある多様な考えの一つに落とし込んだためだ。

第二には、それまで即物的な、殺伐とした実験装置と何らかの形で数値化できる量しか扱えないと考えられてきた自然科学に、(パラダイム論によればであるが)観念的、思想的な側面がある、のみならずそれがほとんど全てである事が明らかになった事だ。

以上二点とも、一つには科学の門外漢であった人々の自尊心を満足させたためにパラダイム論を魅力的な物にしたという側面がある。つまり前者では素晴らしく強力で信頼性と絶対性があるかのように認められまたそのように振舞っていた自然科学が、実はそれほど大した物ではないという事を教えてくれる。後者の事情はもう少し複雑で、相対論や量子論のような斬新な理論に観念的、思想的側面が備わっているというような理解に伴って、ようやく自然科学もケージジョーの主題を扱うようになったのだ、という捉え方を生んだ。つまり自然科学がようやく彼らのレベルにまで辿り着いたというわけだ。この後者に関して言えば、自然科学が形而上の主題についてまで言及する能力を得たという幻想の魅力に抗えない多くの科学者達の存在もこの見方の勢力拡大に貢献した。

このような現在の、あるいは過去の自然科学の姿を不当に貶めようとする姿勢を科学側の人間はパラダイム論的な見方の中に直感的に感じ取り、反発する。

ところが問題は実はもう少し複雑であって、少なからない人間が自然科学に好意的に接しようとした結果としてパラダイム論的見方を採用しているのである。

上で挙げた第一の点にせよ第二の点にせよ、それらは、哲学や社会学と科学を全く分離するのでなしに積極的に科学を扱う対象としようとする姿勢を強力に支援する。

つまりパラダイム論的な見方の誕生は、多様な考え方を尊重し認め合うという、現代社会において非常に基本的なプロセスだった。それは自然科学に特別な地位を許しはしないが、同時にそれまで自然科学(あるいはそのある部分)を単に無視していた人々がそれを認め目を向けるという事も可能にした。そして全く、そのようなプロセスが手っ取り早く可能であるためには、自然科学にはパラダイムである事が要請されたのだ。

このような事情があるために、自然科学に対するパラダイム論的な見方は、それに一定の正当性がある事には関係なく、非常にしばしば、まず始めに結論ありきの議論となる。そして自然科学はある時代ある領域で偶々広く受け入れられている一つの考え方に過ぎないという言い方は、自然科学を貶めるというよりもむしろ自然科学に好意的な姿勢から出てくるという事に気をつける必要がある。

立花隆の駒場での講義に見られる誤解は不理解や不勉強により偶々形成された誤解であるとは考えがたく、基本的にはこのようなまず結論ありきの偏向に依るものだ。特殊解/一般解のような、事項の不理解というよりも単なる特定のテクニカルタームの誤解に関してすらそのような明確な指向性がうかがえる。

もちろんアカデミックな場では常に当然な事だが間違いは指摘した方が良いに決まっている。それは誰にとっても利益にしかならず、一方指摘しなければ不利益をこうむる人がいるかもしれないからだ。その上これだけまとまって相当に滅茶苦茶な誤認が連なっていてそれに気が付いたならば、指摘しないというのはむしろおかしい。

しかしこのような、そこに間違いがあるからという理由で淡々と指摘する域を超え立花隆という特定の個人、あるいはその講義に焦点を絞って、個別の事項の間違いをあげつらってそれには問題がある、よろしくないというのは問題だ。

というのも、これらの余りにもひどい誤解は、初めから決まっている結論を支持するような分かりやすく明確な例を提示しようとするあまりに生じているからだ。従って個別の事例について誤りを指摘したところで、ネタは他にいくらでもある。そのような言説は山ほどあるし、科学の神秘性を高めたいという誘惑に従って科学者達自身によっても量産されている。そしてこれらの誤解を量産する事に繋がった狭い視野は厳然として残るのである。それによって新しく採用されるネタも再び誤解や誤認であるかもしれない。また、その狭い視野は依然として講義を受講した学生に継承されるだろう。

もう一つ忘れてはいけないのは、先に述べたようにパラダイム論的な見方は、自然科学の特別な地位を剥奪するだけではなく、それを視野の中に捉え認めるという事でもあるという事だった。つまりそれはお互いを認めあいましょーね、というお友達ごっこだ。そして立花隆自身がパラダイム論的環境にいる。このために、間違いの指摘は、無用な対立構造を生むか、そうでなければ実質的な意味をなさない尊重という決着がつくかのどちらかだ。

ありうる一つの反応は、相手がお友達になりましょーね、と差し出した手を跳ね除けたと解釈する事だ。この場合典型的には「科学の研究に固執している狭い視野の研究者が門外漢が彼らのサンクチュアリに踏み込む事に感情的に反発している」と考え単に相手にしないか相手を非難する。

もう一つの反応は、「僕はこの事についてこんなに良く理解しているんだよ、えっへん」と言われたのだと考え、それを認めてあげる、というケースだ。この場合全く形式的に訂正等が行われるだろうが、立花隆にしろ講義を受講する学生にせよ、その訂正にはほとんど注意を払わないだろう。

あるトピックについてできる限り正しい知識を提供しようとしなければいけない通常の講義ならばこのような姿勢は許されない。しかし立花隆の講義で注意を払われるのは、議論が歓迎されるにせよされないにせよ立花隆が何を考えて、何を言ったか、だ。

立花隆はジャーナリストだ。教育者ではない。それを大学に招いて講義を受けもってもらうというのは、広く社会的にその地位とその発言や文章の価値が認められているような人間の話を聞く事で大学の内部での閉鎖的な教育、学習活動では得られないような何かが得られるのではないかと期待するためだろう。それは決して通常のカリキュラムの範囲の講義を置き換えるものではない。基本的な事実に関する誤認のない、そして同程度の情報を提供できる講師は学内にも何人もいるだろう。しかし、立花隆は立花隆だけだ。そしてそれがこの講義の基本的な価値だ。

この事は決して、立花隆の言葉を無批判に受け入れるのがこの授業であると言っているわけではない。社会的に地位とその発言や文章の価値が認められているとは言っても、そこには何の客観性もない。窓を開けて風を吹き込もうとしている大学と、立花隆のような有名人の話なら是非聞きたいという学生のニーズが一致してこの種の講義が実現する。そこで何かが得られるという事は期待されるだけで、大学も、そして立花隆も、何を与えられるかを保障する事はできない。初めから学生には批判力と消化力が求められているのだ。

知の巨人と評される立花隆に対する数多くの批判に対し、そもそも批判力を持たない周囲の環境が一介のサイエンスライターを知の巨人に祭り上げてしまったのではないかと分析している人もいる(偉い人というわけではなく僕が全く賛成できるのでリンクしている)。マスコミや科学読み物を読む一般的な人々ならばともかくとして、仮にも東京大学に通っていて立花隆から量子力学を学ぼうとするような愚か者(実際には非常に多くいたのだろうが)に対し立花隆が何ら責任を負わない事は疑いようがない。

なお、このようにきちんと批判力と消化力をもって講義に望んだ学生が、個々のトピックについてまとまった知識を持たないために適切な判断ができないという場合には、先ほどの、淡々と間違いを指摘するという事を誰かが行っていれば非常に役立つはずだ。何度も言うが、間違いを指摘する事自体が問題を生じる事はアカデミックな場ではあり得ず、逆は山ほどある。

そして立花隆はこの講義でパラダイム論的な見方を繰り返し強調している。その結論が先にあって個々の題材が選ばれている。実の所個々の題材の正当性など端から問題ではないのだ。だからどうでも良いというのではなく、その結論が先にある偏った視点それ自体が明確に問題なのだけど、だからこそ、個々の題材の間違いをあげつらうというのは批判の方法として適切ではないだろう。
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