RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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(2005/11/29(火) 03:25:53)
続き。長いけれど、昨日のグダグダよりはましになったかな。ていうか昨日の文章はあまり必要ないかも。


まとめれば、立花隆の講義の基本的な問題点は見ている部分が狭すぎる、あるいは、ある部分を見ていると言いながら実際には全く違う方向を見ているという事だ。だから、立花隆が挙げている個々の事例を単独で取り出してそれは間違っていると言うだけならば良いが、さらに踏み込んでパラダイム論的な立花隆の主張に疑問を提起したり、あるいは高く評価されている立花隆は実はまともな知識を持っていなくて相当に変な事ばかり言っている、というような``権威の引っぺがし''を意図するのならば、このすれ違いが問題となる。

個々の挙げられている事例についてそれは間違っていると言えば、単にそれは見ている範囲から外れているのだと判断して除外するだけだ。ネタはいくらでもある。明白な誤りが正された後には、誤ってはいない、あるいは誤りを容易には指摘できないような事例だけが残るだろう。あるいはそれは科学の皮を被った全く別物、数学の皮を被った全く別物、哲学・思想の皮を被った全く別物の集まりとなるかもしれない。ゲーデルの不完全性定理は自然数論を含む公理系について証明された定理だ。それは自己の正気は証明できないという単なるクレタ島人のパラドクスの話ではない。不完全性定理を根拠として究極の物理理論は有り得ないというのは全く正しくないのだ。しかしそれでも不完全性定理を根拠として、あるいは直接の動機として人の知的探求の限界を解く論調は不完全性定理の提出直後から流行りに流行ったのは事実だ。不完全定理を一般化・拡張して、人の行為の限界を指摘する権威ある文献は数多くある。だから~は~と言っている、と言えばそれは既に立派な``事実''だ。実際の所立花隆が言っている、単純な事実誤認や用語の誤解さえ含むおかしな事例のほとんどには、権威ある出典がある。

立花隆の言葉を重んじる人々にとっても状況は似たような物だ。彼らは立花隆に個々の正確な知識を求めているのではない。そうではなくある人々は広範な分野にわたる豊富な知識を持っている立花隆に広い視野に基づく俯瞰的な視点を求めている。パラダイム論的な主張はそうした人々のニーズに最も手っ取り早く応える商品だ。別のある人々はこのような立花隆から手っ取り早い知識のつまみ食いをしようとしている。いずれの場合も、立花隆の知識の一部に誤りがあるという指摘に直面してもそれは大して問題にはされない。そこでは立花隆という人間そのものに価値が見出されているからだ。そもそも立花隆のような知の巨人という装置の重要な機能は、理解・難易度のヒエラルキーを作り出す事だ。だから誤りの指摘に対して好意的であったとしても、その分野について良く理解している人によれば本当は~であるらしいけれど、という注釈が付されるだけでその指摘の具体的内容には注意が払われない。そのような指摘に好意的でなければ、マニア、オタクが騒いでいる、という認識にしかならず単なる雑音として無視される。

そうではない一部の人々にとって個々の事実として挙げられている事例についての誤りの指摘は有益だろう。しかし彼らは初めから立花隆が正確な知識を提供してくれたりはしない事を了解していて、随分と有名なおじさんが駒場で講義をするというから折角だから聞いてみて、得られる事があるならば貰っておこう、というスタンスだ。彼らは立花隆の権威・地位に惹かれて講義を聴くにしても、その権威・地位に具体的実体がない事は端から理解している。だからわざわざ権威の引っぺがしなど必要がない。単にお互いの利益になる事を意図して、相互に立花隆の言説を批判(非難という意味ではなく)、批評し合えば良い。

立花隆に過度の期待を抱いてその言説に触れて、おいおいてんで駄目じゃないかよと失望したとしてそれは単に自分が勝手な期待をしていたというだけの事だ。そうではなくて、単に他の人々にこのおっさん意外と大した事ないよと伝えるとしても、それは他の人々の立花隆に対する期待を誤解している。初めから立花隆の価値に具体的な実態などない。社会的に広く認められた立花隆の名前その物が立花隆の価値だ。

#これはパラダイムという考えその物だろう。「暗記だけの勉強は駄目だという奴は暗記だけの勉強しかしたことがない」「試験のためだけの勉強は駄目だという奴は試験のための勉強しかしたことがない」というようなマーフィーの法則(?)は機械的に量産できるが経験的に非常に確かだ(強いバージョンとして、「暗記だけの勉強は駄目だという奴は暗記勉強すらしたことがない」とその系列がある)。立花隆がパラダイム論的な主張をする背景の一つとして、自身の地位それ自体がパラダイムの一つに過ぎないという認識があるだろう。

結局の所パラダイム論的な見方の肝は、科学がパラダイムであるかどうかというよりもむしろ、現代社会では科学ですらもパラダイムでなければならないという点にある。そして実際の所科学は一つのパラダイムではあるのだが、できる限り客観的であろうとする科学の努力が、つまりはできる限りパラダイムである事から逃れようとする試みであるが故に、両者は相容れないのだ。




この、見ている物が違う事によるすれ違い、という話はもう少し広い話になる。

そもそもこのような、立花隆の論調の一つの特徴となっている自然科学(僕がこの部分についてしか判断できないからこう書いているが人の知的活動全般について狭い視野から眺めていると感じられる。しかしながら以下の、その原因についての議論は一応自然科学に限っておく。もちろん、センセーショナルで劇的な部分だけが強調される傾向はどんな分野でもあるだろうが。)のセンセーショナルな、劇的な部分ばかりを重視する偏向(僕にはなかなか判断がつかないが、立花隆が言っている事のうち哲学・思想的な部分にもそういう地に足がついていない部分はあることだろう)の由来を探っていけば、それが受け手たる門外漢にとって受けが良かったという事実のみならず、当の研究者達が積極的にそのような部分をアピールしてきたという歴史及び現状にたどり着く。

常識に反する天才達の斬新な発想、奇妙で不思議な実験結果、奇妙で不思議で難解な理論、理論・数式の美しさ、些細な着眼・発想あるいはしばしば失敗や誤解が大発見をもたらした事等等。

そのような大発見の背景にどれだけの堅実な背景があったのか、飛躍のギャップを埋め、より自然な理解を得ようとする誠実な努力がどれほど行なわれてきたのか、奇妙で不思議で難解な理論を、それは実の所奇妙でも不思議でもそして難解ですら言えないというレベルにまで持っていこうと、決してセンセーショナルではない地道な基礎研究にどれだけの研究者が従事しているのか、そういった物理学の堅実な方法論は中々部外者に伝えられなかった。それは一つにはそのような堅実な研究は、何が正しいのかをできる限り客観的に明らかにしたい(当然完全な客観性は達成できるわけがないとしても)という科学の研究に携わる者ならば自ずと持っている共通の目的の下で自然に行なわれているために当の研究者達が無自覚であるという面もあるだろう。しかしながら、それ以上に``面白い物語''の要求に無邪気に応え続けたという側面と、そのようにして自然科学が纏っていったある種の神秘性が、心地よかったという側面は無視する事ができない。

しかしながらそうした宣伝行為は、自然科学それ自体を確実にspoilした。学校の先生が理科少年を育てようと魅力的なエピソードを語れば語るほど、「君も金脈を探して一山あてよう!」というその勧誘は、努力を伴わない一攫千金を夢見てこの道を志す子供たちを生んだ。物理学の難解な理論の不思議で奇妙な側面を強調すればするほど、不思議で奇妙である事こそがその価値となってしまって、物理学が驚くべき精度で、そして首尾一貫して自然を記述する、俯瞰的な視点を提供するという事実には全く注意が払われなくなってしまった。それは面白い物語を要求する大衆のニーズだけではなく、安易な宣伝に終始して自分たちが何をやっていて何をやっていないのかを反省的に明らかにする事(自然科学の内部での行為としても十分とは言えないと僕は考える)を怠り自然科学が纏った非常に分厚い神秘性の衣に温温と包まってきた自然科学に関わる人々自身によって引き起こされたのだ。

以前に書いた文章を一度ここで引用しておこう。
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現代では不思議な事、驚くべき事は山のようにある。それらは一時的な刺激でしかなく、それらから積極的に思想や主義を読み取るなんてことをする事はほとんどない。劇的で神秘的な結果を強調すればするほど、それは単なる魔術、奇術としてしか興味を持たれなくなり、それを行う人間は、魔術師、奇術師としてしか評価されなくなるのである。
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ここで起きているのは正にこの事だ。誰も自然科学の方法論としての側面には注意を払わず、そこから齎される面白い物語だけに興味を向ける。大衆は自然科学に魔術師、奇術師としての意味しか見出さなくなっているのだ。そして、それは、例え魔術師、奇術師としてであっても、ちやほやされているのが彼ら自身であるうちは積極的に大衆のニーズに応え続けた自然科学自身にもかなりの責任がある。

だが自然科学に魔術師、奇術師としての価値しか見出されないならば、より面白い魔術、奇術を行なう者が我々が科学だと主張するようになったとして、彼らがよりもてはやされるようになるのは当然な事だ。驚いて自然科学はそうではない、あれは科学ではないと声高に叫ぶようになる。だが、とうの昔に、誰も何が科学であるのかなど注意を払わなくなっているのだ、その名前が纏った神秘性を除いて。それを象徴するのが昨今の疑似科学の台頭だ。しかし立花隆のようなより正当な科学に近い立場に身を置いている者の言説ですら全く同じ根っこを持つ。だからこそ、個々の間違いを指摘したところで、それはつまらないとるに足らない所だったのだと考えて単に目を向けなくなる(実際、不完全性定理や不確定性原理の神秘性をひっぺがそうとすれば、どうしても、それらは他の多くの定理や法則と同じように単に一つの定理・法則である、というような言い方にならざるを得ない。もちろんそのように言ったとしてなお、それらの重要な意義は疑いようもないのであるが)か、「狭い意味での~」「広い意味での~」というような区別や「厳密には~であるらしいが」という逃げ口上が誕生するだけなのだ。

問題の本質は科学と非科学の境界が、一般通念のレベルでは、とっくの昔に(科学者が自覚するよりはるか以前に)消失していることだ。人々が科学の方向を見ている間は、科学者達は問題の存在に無頓着だった。そして彼らが科学の名を口にしながら全く別の方向を向くようになって初めてそれは科学ではないと言うようになった。だが、人々が科学の方向を見ていた時期においても、彼らが見ていたのは科学ではなかったのだ。

こういう事情があるから、立花隆の件の講義が人の知的探求に関する明確なメッセージを発信していて、それが正にここまで書いてきたような背景の下になされていると考えられる以上、彼が挙げている個々の事例についての事実誤認、用語の誤解だけをあげつらうだけに留まり、そのような明白な誤りがない限りは具体的に彼が何を主張していようと関知しない、というような姿勢をとる事は正しい事ではないだろう。それはサンクチュアリへの侵害に対する拒否反応とサンクチュアリの外での行為に関する無頓着、という風に捉えられても仕方がない、というより実際にそういう側面があると言ってしまってよい。

もちろん、個々人が議論・批判の必要なあらゆる要素を行なう義務を負うわけではないから、このような観察はあくまで大局的なものだ。個々人が大局的な状況その物に直接的な責任を負う事はありえないし、そこに間違いがあると感じられれば指摘するべきだというのはアカデミズムの世界で基本的な姿勢だというのは何度も述べた。他にすべき事があると言ってそれをしなくなるのは完全な本末転倒だろう。

だからこのような視点に基づいて、一々細かい間違いをあげつらうな、と言うつもりはないのだけど(そもそも用語の誤解というのは、最も細かいと同時に最も致命的であるし)、こういった状況について自然科学に関与する人々はちょっと無自覚すぎるのではないかという点は注意を喚起すべき点だと思う。

白川英樹教授が導電性ポリマーの発見・開発に関する業績に関してノーベル賞を受賞する事が決まった時、メディアは繰り返し繰り返し、「試薬の量を数桁多くするというとんでもないミスが、その発見に繋がった」というエピソードを紹介した。そこには、まるで白川教授が、全く偶々運が良く、実力とは関係なしに成功したのだと語っているかのような(無自覚ではあるのだろうが)悪意さえ感じ取れた(ついでに言えば、試薬の量を間違えたのは研究室に所属していた学生だ)。

多くの、特に自然科学に関与する人々がこのような報道について、何かおかしい、問題があると感じただろう。しかし肝心の業績に関する報道に(多かれ少なかれフィルタを何段も通す事による劣化はあったにしても)大きな問題が見られない限り、そのような問題意識は散発的、局所的な物で、広まる事はなかった。

一方、科学的な事実を標榜しながら、到底科学の検証に耐えられない``実験''が小学校の道徳教育にまで姿を現すようになったという「水からの伝言」の問題に対する問題意識は、一定の広がりを見せた。

しかし両者の根っこは同じ所にある。つまり、自然科学の方法論としての側面、そして自然科学が何を教えて何を教えてくれないのか、に注意を払わずに、その面白い物語性にだけ意味を見出すという所だ。実際「水からの伝言」に対する問題意識がこれほどまで広まったのは、それが科学的事実を不適切に標榜していたからというだけではなく、道徳の根拠として扱われたり(それは科学的事実の使用法として不適切であるだけでなく、当の道徳の意義すらspoilする)、ヘビメタよりクラシックの方が良いというような思想上の偏向の正当化として持ち出された事だ。歴史的に言って科学と主義主張が結びついた時に引き起こす問題は、正しくない科学的事実がでっちあげられて特定の主張の正当化に用いられた場合よりも、正しい科学的事実がある程度多くの人々に指示されている主張と関連付けられ、しかし両者には本当は何の関係もないというケースにおいてはるかに破滅的であったことは疑いようもない(それはその主張と科学的事実の双方を歪に変容させる)。

そういうわけだから、後者のような明白な誤りを伴うケースについてだけ非難が集中し、前者のようなケースについて、つまり人々の目が科学の方向を向いている限りにおいて科学がどう扱われようと無頓着である、というのは適切な状況ではないだろう。そのような姿勢こそが(現代社会ではいずれにしろ不可避な事態であったとは言え)、社会通念上の科学と実際の科学との乖離を促し、科学と非科学の違いを単なるラベルの有無にしてしまったという側面が確かにあるのだから。(*もちろん繰り返すが、大局的な構造に対して個々人が責任を負うというつもりはない。より問題にすべき点があるからと言って水からの伝言を批判しないというのでは本末転倒だ。しかし構造は結局個々人の活動の結果として生まれるのだから個々人が構造について意識しなければ大局的な状況の改善に至らないのも確かだ)。
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