RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
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平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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ゲームノー (2006/04/10(月) 01:58:35)
「子供からゲームを取り上げたい大人たちに「ゲーム脳は科学的根拠が無いトンデモだ」と指摘しても、彼らには根拠は重要ではないから心に響かない」

どうしてもこの種の主張は、「科学的であるかどうかを重んじよ」という主張に捉えられがちだ。そしてさらに悪い事には、実際にそういうケースは非常に多い。のみならず、それは他人の不明を非難する事で自分の評価を高めようという意思の下で行われたりする。あるいはもはや純粋にidentityを確立するためのなりふり構わない侵略戦争である事も多い。

otsuneさんはモヒカン族という言葉の出所であるくらいだから、こうした状況を念頭において上記のエントリを書いたのだと思う。

しかし結局の所、多くの場合人が真剣に何が正しいか何が望ましいかを検討するのは、自分が深く関わっている領域だけだ。``遠く''から発振された情報、主張は、非常に多くのノイズを含む。これはどんな集団に属する人間がどんな方向に向けて声を発する場合も例外ではない事だ。それは科学が、あるいは科学をその立場の基盤におく人間が社会と関わりを持とうとした場合にも例外ではない。そして多分我々誰もが念頭におくべき重要な事は、どんな集団、領域、分野にも(それが十分大きければ(*もちろんこれはめちゃくちゃ大きければ誰かはいるだろう、という下らない事ではなく、ここでのポイントは、大抵の集団には賢明な人間がいるという事だが、あまり小さいとそうも言えないのでこの注釈をつけている))賢明な人間はいて(その主張がなされる相手にとって)考慮に値する主張をしているという事だろう。

#一応物理学科の学生をやっている身としては、科学の分野ではそのような場合が比較的多いと言いたい所だが、実際にはやはりそうとも言えないようだ。というよりそれは個々の人格に関する問題ではなく、「お母さん誉めて誉めて」という行動原理は子供だけの専売特許ではなくて誰にも常に存在し、意味のある主張をしようとしたらそれを意識的に抑制する事が常に必要なのだ。

ゲーム脳を根拠にして子供からゲームを取り上げようとする大人達が耳を傾けるに値する主張も実際に存在する。あるいは、少なくともそれを主張する人々が、彼等に何らかの利益を提供できる事をいくらかなりとも確信しているような主張が存在する。

それはまさにotsuneさんが「森教授の学説がトンデモでグダグダなので、それに乗っかって行くと「ほら、ゲーム脳なんて科学的根拠なかったじゃないか。やっぱりゲームしても良いんだ」と子供に反論で逆襲されるよ」と書いている内容だ。

エセ科学についての運動


最近、科学者の間で、ニセ科学という言葉を一つのキーワードとして科学者と社会との関わりを見直そうという動きが広まっている。(このまとめ方が妥当であるかどうか僕にはわりと高いレベルで自信がない。もしこのような流れについて知らない人がこの文章を読んでいる場合物理学会でのシンポジウムについてのページを参照してほしい)この「ニセ科学」の代表例として扱われる現象の一つに「ゲーム脳」というトピックが含まれる。

この運動は、それが「非科学を叩く祭り」になってしまう事のないよう、慎重な「抑制」を伴っている。(c.f.きくちさんのところの3/24の記事)

そこでの基本的な問題意識は(と書くけれどこれは結局の所僕の問題意識であり、この運動の中心的な位置にいる人達の発言や行動がよくそれと一致しているように見えるから大体類似した問題意識によっているのだろうと推測している。このような人達は各論だけでなく、根本的な問題意識を断片的には時折表明しているから、全く食い違っているという事はないと思うが、全く同じという事もないだろう。)、科学を重んじさせよう、という事よりも、科学が実際に重んじられているという事だ

育児の方針を科学に依存するという事


ゲーム脳に関して言えばそれはこういう事だ。

まず、実際にゲームが心身に何らかの害を及ぼすのではないかという心配を抱いている人達がいる。彼らに対して科学が提供できる情報があれば最良の物を提供すべきだし、科学の現場でまともな評価をされていないような研究者だけが乱雑な情報発信をしているならば適切な批判を加えなければいけないだろう。

そして、まずそもそも子供にゲームをさせたくないという親達がいて、この人々がゲーム脳という「裏付け」を歓迎している。ここで重要な事は、人々が科学というラベルを自分の考えの味方につけたいと考えている事だ。ここではotsuneさんが指摘しているように科学的であるかは軽視されているが、しかし、それにも関わらず彼ら・彼女らは科学というラベルに強大な権威を見出しているのだ。

そしてここには、彼ら・彼女らにとっての問題が存在するのだ。それは、主張・思想を科学に依存するという事をしてしまっているという事だ。それは裏付けであるところの「科学理論」が否定される事があれば、その主張・思想の説得力が大きく削がれるという事だ。その上この場合ゲーム脳の話はまっとうな科学理論とは認められていない(これは主流派ではないという意味ではなく、それが科学的論証の手順を正しく踏んでいないからそもそも科学として考慮に値しないという事だ)から、たまたまこの話題について周辺の事情も詳しく知っている学校の先生がいて生徒にそう話したら、親の権威は大きく失墜するだろうし、それは場合によっては子供にゲームをする根拠すら与えてしまうだろう。

もし親がある特定の教育方針・育児方針を持っていて、その下で子供にある基準以上にはゲームをさせたくないならば、それだけで理由としては十分なのだ。子育てをしている自立した大人として、毅然として子供にその方針に従わせれば良い。そして、それができるという事は子育てをしている自立した大人としての資格でもある。もちろんそれが完璧に実行できる事は稀だろう。(結婚もしていない若造が偉そうですが)子育ては難しいものだ。しかし、そのような人の弱さ、不完全さを科学が埋めてくれるという事はない、それが科学という立場からのゲーム脳という問題に対する一つの考慮に値する主張なのである。

もちろん親が教育方針・育児方針について悩み、決定する過程で、ゲームの心身に及ぼす影響に関して科学が提供できる知識を考慮する事に問題があるわけではない。重要なのは、そこには、与えられた知識、情報に自分の価値観の下で評価を加え、思考し、誇りを持って結論を下す過程が必ず必要であるという事である。科学は非常に強力な判断材料であり、確かに多くの主張を間接的に支持する。しかしそれが特定の主張を直ちに、直接的に支持するという事は有り得ないのだ。子供が心行くまでゲームを楽しめるよう願う親ならば、ゲーム脳の問題を生じないゲーム機が開発される事を望むだろう。

また、子供からゲームを取り上げるためのゲーム脳というギミックの使われ方は「もったいないお化け」のそれと同じだ、という(明らかに妥当な)指摘もあるだろう。ゲーム脳の話がまともな科学理論ではないという情報もまた、それが直接的に実際的な考え・行動を要求するわけではない。ここでもやはり人間が人の手によってこの情報と実際的な考え・行動を繋ぐプロセスが必須だ。単にその情報を無視したり重きをおかない選択すら自立した人間には常に許される。科学という立場から発信できる情報は、子供からゲームを取り上げるためにゲーム脳という言葉が使われる時、それは「もったいないお化け」と同じ使われ方であり、その科学っぽさが使い方(例えばどの程度の年齢までそれが許されるか)についての判断を誤らせている可能性がある事、科学的な論証の対象となる言葉であるという事情があるからもったいないお化けのように用いる事は不適切である可能性があること(例えば、ゲームばかりしていると馬鹿になっちゃうぞー、で十分ではないか)等を指摘する事のみである。

考慮に値するという事


「エセ科学」に関する運動で中心的立場にいる人々は、このように「非科学に対する科学の押し付け」にならないよう慎重に主張すべき内容を吟味している。もちろん、それはここで僕が書いた事と同じというわけではないし、そもそもこのような人達の間でさえ様々な見解の相違がある。重要な事はそこでは常に誰のどんな利益やどんな害を考えているのか十分に実際的・具体的なレベルで明確にして主張がなされている事だ。従ってそれは関係する人にとっては一定の考慮に値するだろう。

apjさんがこの記事で「ニセ科学批判は正義だの主義だのではなく、利害でやるべきだ」と述べている。これは大体ここで述べた事と似た意味ではないかと思う。ただ、利害という言葉はちょっと意味が(特に金銭的な方向)に限定されるニュアンスがある。僕は「社会的・実際的に意味を持つような議論をしようとする場合には、まず十分に具体的・実際的に目的意識・問題意識を明示しその共有を図るべきである。それが一度共有されたならば、その議論は共通の認識が得られない場合にすら意味のあるものになる。」と考えている(もちろん簡潔さという点で「利害」という一単語に優れるものではないが)。そしてこの擬似科学に関する運動の少なくとも中心的に関わっている科学者達は大まかに言っていつでも同じような点について注意を払っているようである。(これはおそらく科学者の多くが賢明な人達であるという事を意味しはしないだろう。疑似科学の問題が、科学と社会との関わりを考え直す重要な機会であると捉えられたのは、多分非常に幸運な事だ。その幸運の中にはおそらく、「知の欺瞞」を翻訳した経験を持つ田崎さんがこの運動の中心的な位置にいる人間の一人である事が含まれる(あるいは必然であるかもしれないが)。)

そしてそのような科学の外にいる人にとって意味を持つであろう情報のうち一般的な物の一つは「科学が何を与えてくれて、何を与えてはくれないか」である(そしてそれを最も明確に認識できるのは科学者であるから、それは科学者が発信すべき情報の一つでもある)。ゲーム脳というトピックに関してこのような視点から言えることの一つはそれを子供からゲームを取り上げる理由に使っている親達の中には科学が与えてはくれないものを科学というラベルに欲している場合があり、従ってそれが実際には与えられていないという事態はそのような親にとって何らかの問題を生じる可能性があるという事である。

もちろんゲーム脳がまともな科学理論ではないという指摘を初めとしてこの問題に関して論じられる事は他にもたくさんある。重要な事は、単に科学上の議論をしているに留まらずに、誰かにとって具体的に意味のある主張をしようとする場合、少なくともここで言及したような賢明な人達の場合、必ず具体的な目的意識の下に議論を組み立てているという事である。それは決して科学的に正確な知識の押し付けではないのである。

otsuneさんの文章について一箇所提言



さて、otsuneさんがこのようなまともな科学者達の間での疑似科学についてきちんと考えようとする風潮についてどの程度知っているのかどうかは分からないのだが、「説得するときは、そのターゲットの「欲望」や「嫌悪感」を良く見抜かなければダメだ」という主張はapjさんの「利害」というキーワードや、僕の「問題意識の共有」という考え方と通じる物がある。ひょっとしたら疑似科学に関する運動については知っていて、単に他の非科学叩きをしている人達に苦言を呈したのかもしれない。

しかしいずれにせよ、以下の下りの前半部分は深刻な問題を含んでいると思うので書いておく。

もし科学者としてそんな大人たちに科学の視点を持ってほしいと考えているのなら、まず「ゲームを子供から取り上げたい」という要求を満たす為の科学的な提案をしなければダメだろう。そして、森教授の学説がトンデモでグダグダなので、それに乗っかって行くと「ほら、ゲーム脳なんて科学的根拠なかったじゃないか。やっぱりゲームしても良いんだ」と子供に反論で逆襲されるよ


科学的事実、科学理論と称される物が特定の思想を支持する根拠として濫用される事は珍しくはない。そしてそれはもちろん常に問題なのだが、この種の事態が破滅的な様相を見せるのは、全くまともな理論ではない理論が論拠として持ち出されるケースよりも、まともな科学理論がそれが直接的に支持するわけではない思想の論拠として適切にギャップを埋める手続きを経ずに無造作に用いられたケースである事は疑いようもないと僕は考えている。それはその理論と思想の両方に、手のつけようがない歪みをもたらす。典型的な例は進化論と優生思想の関係だろう。

もし、「ゲームが人の心身にどのような影響を及ぼすか知りたい」という欲求を持つ人間がいたとしたら、科学は誇りを持ってその積み重ねてきた知識の体系と強力な方法論を提供できる。もっと曖昧な「ゲームをするのが良い事なのか悪い事なのかを考えたい」というような欲求に対しても多分それは可能だ。

しかし、もし、科学が、「ゲームを子供から取り上げたい」という要求に合致した「科学的事実」を提供できるという点を売り文句にして科学者が科学を宣伝し、売り込むとしたら、その「科学的事実」が実際にきちんとした科学的営みによっているとしても、というより、その場合にこそ、科学は最も危険な物になるのだ。おそらくその「科学的事実」は、元々はまともな科学であったとしても、売り込まれた相手によってまともに学ばれる事なく、拡大解釈を施され、手のつけようがないほどに変容していくだろう。

ゲーム脳に関してotusneさんの今引用した段落の後半部分のような主張をしたいならば、前半部分は全く必要ない。そしてそれは科学的な視点を持って欲しいために行なわれる主張ではなく、科学が与える事ができないものを科学というラベルに求めている、従って(得られない物を得たと思っているのであるから)問題が(例えば子供が学校の先生からゲーム脳の話が嘘であると聞いてきた時に)生じる可能性があるという指摘であるべきだ。ここでの問題は科学的であるという事が軽視されているという事ではなく、科学というラベルが過剰に力を持っている事であり、科学に何ができないかを一番よく知っているのは科学者なのである(そうであるべきであるというのがより正確であろうが)。

もちろん、大抵の科学者は(そして僕のような学生でも)科学的な視点を持つ事は非常に有用であると考えている。しかしそのような主張はまた別の文脈で(例えば上で書いたようにゲームが人の心身にどのような影響をおよぼすか知りたければ科学はおよそ最も強力な手段となるだろう。)、そしてそれが人にもたらす利益を明確にした上で、行なうべきだ。もちろんそのような利益はかなりの程度に社会的に認められていて、それが学校教育で科学教育が一定の地位を占めている理由でもあり、科学者はその事について誇りを持ってよく、必要以上に謙虚になることはない。しかし、科学が特定の思想に媚びる事で科学の重要性を納得させようとするならば、例え科学的営みそれ自体は正当に行なわれていたとしても、それは正しい事ではないし、危険ですらある

最後にもう一度繰り返しておこう。科学は直接的に何らかの具体的な思想を支持する事はない。もちろん科学は間接的には非常に多くの思想の論拠と成り得るが、その間には必ずギャップがあり、それを人が人の手で埋める事は必要不可欠のプロセスだ
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