RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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読書 (2006/09/24(日) 03:48:17)
日本語で上手な文章を書くには:10の「べからず」
↑に関して言及。ただし分析のみ。

小学校で要求される読書感想文とは、実際には読書感動文なのだろう。つまり、そこに書かれるべき事は始めから決まっているし、その上書かれる文章は間接的にしか重要ではない。重要視されているのは、素晴らしい文章を読んで感動するのはとてもとても良い事であり、生徒達はそのような経験を通して豊かな感性を獲得すべきだという事だ。そして、読書感想-動-文として記述する事が求められるのは、私はこの素晴らしい文章を読んでこんなにたくさん感動しましたというアピール、つまりその経験が確かになされたというアピールなのだ。読書感想-動-文はそのアピールがどれだけ効果的で印象深いかに基づいて評価される。

結論を明確にする事が求められないどころか否定的な評価に繋がる理由は、書かれるべき事が初めから決まっているからだ。誰も-少なくとも教師やコンクールの審査員は-結論がどんな内容であるかに興味はないのだ。明快な結論と論理的な構成を備えた簡潔な文章とは、誰にでも書ける文章である。実際にそのような文章を書くためには、一定の訓練が前提として必要だし、その上で明確に結論を持っていなければ不可能なのだが、それでもそういった簡潔で明快な文章は手間がかかっていないという印象を読者に与える。読者が筆者の考えを知りたいと思っているのならばこの事は問題にならないしむしろ望ましい。しかし読書感想文の場合手間がかかっていないという印象は、その筆者が本当は読書をして感動するというとてもとても正しく望ましい経験をしていないのではないかという疑いに繋がるのである。従って読書感想-動-文で高い評価を受けるためには、筆者はあの手この手を尽くして巧妙に、そして人とは違う特別な方法(特別な技法を開発する事が難しいから、良く用いられるのは個人的な経験を持ち出し関連付ける事だ。特に、お婆ちゃんが死んだ話と犬が死んだ話は、常にオリジナルとして扱われる)で、読者が「この子はこんなに素晴らしい経験をしたのか。この子はこんなに豊かな感性を持っているのか。」と感銘を受けるように工夫しなければならないのである。

#件の記事のコメント欄には、「子供らしさ」が重視されているのではないか、という主旨の書き込みがあるがこれは違うと思う。子供による作品だという点を重視して通常と異なる基準で評価がなされるというのは演劇とか芸術分野とか他の多くの分野で目に付く事で読書感想-動-文の場合も確かに例外ではない。また、これは大人が子供に望む事を子供が行なっているという事が評価の基準になる-動物園でレッサーパンダが立つのを見て拍手をするような姿勢-という点でここで論じている事と似た根を持つ。ただ、読書感想-動-文の場合は文章としての完成度が優れていれば、それは素直に評価される事が多いようだ。その文章力が読書をして感動するという豊かな経験をアピールするために用いられている限りは。そして読書感想-動-文において最も本質的なのはやはりこの点、そこでは正しく望ましい経験を効果的にアピールする事が求められているという点に尽きるのだと思う。

また、読者が結論に興味がないと言っても、結論が初めから決まっているのがその本質である以上、ルールに反する結論は議論を待たず却下される。特に課題図書とは、とてもとても素晴らしく生徒達が是非とも読むべき図書として選ばれたのであるから、これを否定的に論じてはならないのである。そして課題図書以外から選ぶ場合には、課題図書というとてもとても優れた図書が推薦されているにも関わらず他の図書を選んだ以上、その図書は課題図書よりも優れているか少なくとも同程度でないといけない。もしある生徒が課題図書以外の図書を否定的に論じたならば、その生徒はとてもとても素晴らしい図書のリストが渡されているにも関わらずわざわざ粗悪な図書を選択した天邪鬼な生徒であると理解されるのだ。

#読書感想文に限らなければ誰でも学校生活で一回くらい``天邪鬼''になった事があると思うので、この点について具体例を挙げていないけれど皆さんかなり実感できるのではないかと思う。

このような読書感想-動-文の性質を、さらに``日本的良い''文章の性質を、そのまま直ちに日本に、あるいは日本的文化に結びつける事は適切ではないだろう。というのも、修辞的で長く手間がかかっているが分かりにくい文章が重んじられるというのは、読者が筆者の主張それ自体には興味がないという状況で、全く一般的に見られる現象であるからだ。例えば、アラン・ソーカルがソーシャル・テキスト誌にパロディー論文を投稿して間接的に批判し、後に``Fashionable Nonsense''でより直接的・具体的に批判を行なった人文・社会学分野における(もちろんごく一部の)論文や文章はこの性質を持っていた。Fashionableとはとても大雑把に言えばまさにこの現象を示す。さらに、アラン・ソーカルはこの批判活動で二つの問題に直面した。一つは、彼に対する反論の多くが、彼はその批判の対象とした人々が「馬鹿であり」「犯罪者である」と主張していると見なしていた事、そしてもう一つは、彼に対する反論のほとんどが、彼は「馬鹿であり」「犯罪者である」という内容であった事だった。件の10の「べからず」の第十項に書かれている「10. どうしても他人の主張を批評する必要がある場合は、主張そのものではなく、その人の生い立ちや人となりについて述べなくてはならない」という認識は、人が何が正しいのかを明らかにしようとして議論に参加しているというわけではないという状況で、そして特定の主張・思想・状況や人間関係(特に上下関係)こそが重要であるという状況で普遍的に観察される。ここでは比較的フォーマルな形でフォーマルな文章を扱っているから``Fashionable Nonsense''を取り上げたが、現代ではこのような例を探すのは簡単だ。インターネットに(文化・言語圏を問わず)溢れている。

#「馬鹿である」、「犯罪者である」という書き方は象徴的な書き方である。Aが「馬鹿である」という言説とは、Aの言う事は耳を傾けて検討するに値しない物であると(大抵の場合Aに対する反論を装って)A以外の人間に向けて行なわれる言説である。Aが「犯罪者である」という言説とは、Aが何か悪い事をしていて従って主張する資格がないという言説である。これらは、自分がAの主張を検討するつもりはない、とAや他の誰かに伝える事や単にそう決定する事とは本質的に異なっているという点に注意。

結局の所、件の10の「べからず」とは、筆者が何を言いたいのかという点に興味が払われないで何か他に重要である事がある場合に普遍的に見られる現象だ。読書感想-動-文の場合何をおいても重要であるのは、素晴らしい文章を読んで感動するのはとてもとても良い事であるという事、そして生徒達はそのような経験を通して豊かな感性を獲得すべきだという一部の(だといいなあ)大人達の思惑である。日本以外のどこ-例えば欧米-でも、随筆的正確の強いエッセイという物はあるだろうし、日本でも、新人ビジネスマンは報告書を論理的に構成し必要事項を明瞭かつ簡潔に書くことを求められるだろう(ただし私は大学生なので実際の所は良く分からない)。従ってもしこのお話からさらに先に進んで特に日本における論点を見出すとしたら、問題は内容そのものが興味の対象となる文章が書かれる機会が何故少ないのかという事になるだろう。つまり、何故日本では(初等)学校教育で読書感想文のような文章を書く事が生徒達に対して特に要求されるのか、そして何故学校教育で論理的に文章を構成して明快に自分の意見を述べるという訓練が軽視されているのか、さらに何故社会的に見て論理的で明快に主張が述べられた文章が書かれる機会が少ないのか、といった問題が提示される事になる。




#あと、『この人はきっと朝日新聞を分析したんだよ』のコメントに大爆笑。そうなんだよ、特に天声人語の最後の数行で無理やり変な落ちをつけるのはやめて欲しーよな、うん。
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