RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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トゥルース (2005/05/02(月) 02:59:06)
「ゆとり教育の成果?基礎学力が向上」とかいうとんでもないニュース記事を読んで、ちょっと色々思うことがあったので、何か書こうと重い、その前振りとしての長文。

この記事についてはすでに見つからなくなっているので同じ話題の記事を。
<学力テスト>「好成績」戸惑う文科省 なぜ、上向いたのか
<学力テスト>成績アップ どう評価?揺れる学校現場

この前振りの長文自体はちょっと一般論としては大上段すぎてあれかもしれない。


こういった事を単純に二分して考える事には慎重であるべきだろうけれど、何らかの主張、議論が行われる際、日本では
(A)一般的に言って大体正しそうな事柄を重視し、主張する
傾向が強いのに対し欧米を中心とした、特に外交上日本と良く関わってメディアで良く目にするような国では
(B)自分(達)の立場に基づく事柄を重視し、主張する
傾向が強いように感じる。後者については、国際的なやりとりがどうしてもそのような性質を帯びるというだけでなく、少なからない国で国内における様々なやりとりにおいても立場に依拠した主張や議論が常に行われている。典型的なのは行き過ぎた起訴社会として取り上げられる事も多いアメリカだろう。

面白い事に、全く逆の事情こそがこのような傾向を作り出している。

アメリカのように(B)の姿勢が際立っている社会の特徴として、一神教的宗教のような絶対の真理を各々の個人、集団が抱えているという事、そしてそうした「異なる絶対の真理」を持った個人や集団が共存しているという事が挙げられる。こうした絶対の真実という代物は人間ごときにおいそれと至る事のできない代物で、しかも複数存在している場合には互いにすり合わせを図る事は不可能だ。すなわちこうした融通の利かない絶対の真実の存在こそが絶対の真実を扱う事を諦めさせ、人間相互の営みの中で実際に機能する真実の代替物を発達させたのだ。

起訴社会というものはこうした背景を考えると確かに理解できる。裁判制度が正しく機能するよう努力すれば、得られた判断は正しいものであるはずだ。なぜならばそうではないという事態を神が許すはずがないからだ。しかしもしあなたがあなたの立場に基づく主張を十分に行わなければ、それによって誤った判断が下ってしまうかもしれない。それは神に対する背反だし国民としての義務にも反する。だからこそあなたはあなたの立場に基づく主張を最大限に行わなければいけない。自分が間違っているかも、などと考える必要はない。なぜならばそれは対立する立場にある者の仕事だからだ。彼は彼でその立場に拠った主張を最大限に行うのだからあなたが気を病む必要はないのだ。そして、もし彼が十分な主張を行わなかったために我々が真実に至る事ができなかったとしても、それは彼の責任であってあなたの責任ではない。こうして裁判という制度は、各々の立場にある者がその主張を最大限に戦わせ、できる限り公正を図って裁定を下すよう努力することで、真実が得られるだろうと期待する、という意味を持つようになった。

日本では逆の状況が生まれた。異質な集団が共存するという事態を余り経験する事がなく、宗教は絶対の真実を担うものという性質が希薄である日本では、絶対的な真実の存在を想定するという事があまりない。ところがそれによって、ある程度の考えの違いには寛容である代わりにその範囲を逸脱している者を徹底的に拒絶するという傾向が生まれた。融通の利かない絶対の真実が存在していない分、考えのすり合わせが容易であり、それによって、ある範囲に収まる必ずしも互いに整合性があるわけではない主義主張思考の全てがまとめて絶対の真実としての役割を担うようになったのだ。

#もちろん、宗教、社会、その社会を構成する人々の特質というのは相互に影響しあう物で、ここまで断言的に記述してきた因果関係は、あくまで一つの説明であると捉えてほしい。特に歴史的な経緯はともあれ、現在では宗教の占める役割はずいぶんと小さくなっている場合が多い。重要な事は、絶対の真実が対立しあう状況が真実の代替物を得る現実的な方法論を発達させていて、絶対の真実の存在が余り想定されない状況がある範囲に収まる主義主張の全てをまとめて絶対の真実として振舞わせているという構図である。

こうした二つの姿勢という物はどちらが優れているといった物ではなく、どちらかに極端に傾くことがないようにしなければならない。

(B)の姿勢に無批判に偏れば、その背景には各々がその立場に立って戦う努力を怠らなければ得られた結果は正しいものだろうという期待があるのだという事が忘れ去られ、勝てば官軍的な思考が生まれる。それは行き過ぎた起訴社会を生み出したし、戦争の最も根源的な原因でもあるだろう。

しかしまた(A)の姿勢に偏れば、絶対の真実として振舞っているある広がりを持った思考の範囲から逸脱した者に対する受容性が全く無くなるという事態が生じる。その典型的な発現例は、暫く前に話題になったイラクでの人質事件においてヒステリックなまでに日本中で巻き起こった「自己責任論」だろう。このようなある一定の範囲を逸脱した者に対する容赦のなさは、一般論として問題であるだけではない。自由とか権利という概念を持つ現代的な国家においては、どんな立場にある者も(主義主張思想行動原理が異なるのは当然として)その存在だけは認められなければならない。イラクでの人質事件における「自己責任論」に関して言えば、ある官僚(だったと思う)が、「再三退去勧告は出しているが、強制退去させるわけにはいかない」と発言していた。そしてそうであるならばその時点で全く自動的に、日本政府にはイラクに勝手に赴いた日本人に対する責任が生じているのである。イラクに出かけるという行為は勿論初めから自己責任の下で行われた行為であって日本政府の責任は全く独立に発生する。もし人質になった日本人が「日本政府なんか大嫌いだから何もしてくれるな」と強弁したとしてもなお、日本政府には一定の責任が生じ、一定の救助に向けた対策を取らざるを得ない。

このように、(A)と(B)の姿勢というのは、一般論としてどちらかに極端に偏ってはいけないと言うことができるのだが、その上で僕は、言わばより日本的である(A)を重視すべきだと思うのである。

それと言うのも(A)の姿勢は真剣に思考を巡らして真実に至ろうとする姿勢に繋がるからである。(B)の姿勢は言わば真実に至ろうとする努力を放棄し、ただ十分に主張を戦わせれば得られた結果は正しい物となるだろうと期待するだけだ。その期待は宗教のような絶対的な拠り所によって強固な物となり得るが、いずれにしろ真実に至る努力を放棄している事には違いない。

また(B)の姿勢はしばしば、「アイデンティティの確立」という厄介な行動原理に繋がる。この行動原理の下では、真実に至ろうとする努力は完全に放棄される。何故ならアイデンティティを確立するためには、対立陣営の存在が必要であるからである。

日本では最近、様々な局面で(B)の姿勢を重視するようになっている。例えばディベートという「競技」が輸入された。これは、ある論題について、肯定側と否定側との二チームに別れ一定の試合形式に則って議論を行い、一定の判定方法によって勝敗を決定するという物だ。最も公式には、両チームとも肯定側・否定側両方の準備を行い、試合の直前にどちらのチームがどちらの主張を行うのか無作為に決定する。このようにどちらが正しいのか考えるという事よりも議論を行う技術の向上と実践に主眼があるのが特徴である。しかしながら、このような競技が考案された背景である、十分に議論を戦わせた結果得られた結果は正しい物であろうという期待、逆に言えばどんな立場にある者も十分にその主張を行う事ができるようでなければ正しい結果が得られないという問題意識が比較的存在していない日本においては、単なる一種のゲームとしか理解されない場合が多い。その事を抜きにしても、(B)の姿勢に基づく主張を行う技能が重要であるというのは、国際舞台においてはどうしても(B)的な姿勢をとる必要が生じるためであって、それは実際上の重要性であり、(A)に比べて何らかの意味で優れていると見なすべきではない。

(A)の姿勢こそは思考の停止を避け、常に真実を追い求める姿勢である。(B)の姿勢も、その背景には絶対的な真理が存在するという確信がある事を考えれば、そのような絶対の真理を簡単に諦めてしまうというのは余りにも悲しすぎるだろう。

僕は以前、高校の授業で与謝野晶子と平塚らいてうの母性に関する論争について調べ発表した事がある。実際の所、この話題に関して僕は大して興味がなく、まさに授業でやらなければならないから調べただけだった。所がそこで非常に驚いたことがある。この論争では、両者は「母性をどう捉えるか」について大まかに言って対立する考えを持っていて、それは最後まで一致する事がなかった。にも関わらず、両者の間では議論が成立していたのである。公理主義のような考え方を全く中途半端に一般的な状況に援用し議論を回避する手段としてだけ用いる事に慣れてしまっている者ならば、直ちにこの議論を「母性の定義が両者で食い違っているのだから意味のない議論だ」と斬って捨てるだろう。この種の思考の停止は数多いし、またその逆に、そのような意味のない議論も実際数多い。それにも関わらずここで両者の間に議論が成立していたのは、「母性とは何であるか」という全く以って抽象的な論題は両者のどちらにとっても全く興味の対象外であり、問題になっていたのは「母性をどのように定める事が女性の地位の正常化にとって有益/合理的であるのか」であったためだ。両者の立場はほとんど対立していたが、目的を共有していたために議論が成立していたのである。そして僕自身、さして興味を持っていなかったにも関わらず、一端その目的を共有した後は、脳内で議論に参加する事すらできたのである。

このように、議論の目的を一端きちんと定めれば、その後には深い議論を行う事ができるのである。もちろんほとんどの場合最終的な結論に至る事は難しいが、その議論の過程自身非常に有益な物であるはずだ。

また目的の設定の段階では(B)の姿勢が関わってくるのは当然であろう。しかしながら一端目的が設定され後は、徹底的にその目的の下での議論を展開する事が可能である。

そして明確な目的のない議論は避けるべきである。それは往々にしてアイデンティティの確立のみを行動原理とする(B)の最も無益な形態へと繋がるからである。

僕は今大学生であり、学究の徒の端くれである。およそ大学生とは最も不真面目な類の人種だろうし、学級の徒である事に由来する行動原理などほとんど存在しない。しかしただ一つだけ、真実に仕えるという事だけは義務として心得るべきではないかと思うのだ。例えば以前東大の物理学科出身者が複数、反社会的な新興宗教団体の幹部になっていた事が話題となった。自然科学は真理に至るための一つの方法論であったはずがいつのまにか一つの立場として扱われる事が増えてきてしまった。つまり、自然科学の研究者という立場は一つのアイデンティティとなり、それは反科学的とか神秘主義的な立場と表裏一体の関係となってしまった。それにより、自分のいる陣営が十分なアイデンティティを与えてくれなかった場合に相手側の陣営にそれほど抵抗なく相手側の陣営に移動してしまうし、その場合に自分が元いた陣営とできるかぎり対立している陣営が魅力的に感じられてしまうのだ。しかしながら、自然科学を真理に至る方法論として認識していれば、それがあまり有効な方法ではないと思うようになれば単にそれを捨て去るだけで、自然科学を徹底的に拒絶するという姿勢に至る事はない。あるいは、自然科学者としての立場と信仰とを両立させる事もできるはずだ。

思うに僕らは、真実を探求する努力をいとも簡単に放棄してしまうようになってはいないだろうか。しかしながらそのような努力を放棄してしまえば、我々は進歩を止めてしまい、常に細かな歪みに苦しめられることになってしまう。
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