RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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エデュケーション (2005/05/09(月) 02:53:06)
トゥルース」 の続き。の前半。

やはり大上段すぎるか。一般論にこれほど筆を割く気はなかったのだけれど…。


まさに今、「教育」が、(b)の姿勢による議論ばかりが行われ、大きく歪んだ状態にある。

ゆとり教育の見直しが叫ばれて久しい。教育問題を扱ったテレビ番組を見れば、いつも誰もがゆとり教育を批判している。まるで誰もが忘れてしまったかのようだ。ゆとり教育以前には右を向いても左を向いても、詰め込み教育を批判する論調ばかりであった事を。

この種の「振動」は(b)の姿勢による議論が不適切に行われた場合の典型的な現象だ。本当に正しい事は何のか真剣に追い求める姿勢を失った結果、定期的な力関係の移動だけが議論の全てを支配するようになってしまうのだ。

真実を追い求める姿勢を失って(b)の姿勢に基づく議論を行えば、その目的は「アイデンティティの確立」となりがちである。この場合の問題は三つある。一つは、意見を述べている特定の相手との間に自分にとって好ましい位置関係、人間関係を設定する事が主要な行動原理となってしまう事。そして、アイデンティティを確立するためには対立する立場にある者の存在が必須であるために、意見を表明するだけで満足してしまい、自分の意見の問題点を修正し、そしてその意見が採用されたり実現したりするよう努力するといった前進のための努力が行われないという事だ。最後に、現状で良いという主張が殊更になされる事は余りないため、必要のない部分についてまで果てしなく改善が行われ続ける(もちろんその実態は、改善に見せかけた単なる周期的な振動か労力ばかりかけて何も行わないかである)という事だ。

ゆとり教育以前には、誰もが、その頃の教育を詰め込み教育と言って批判していた。それらの主張のある部分は正しくある部分は誤っていただろう。しかし常に重要視されていたのは当時の教育を批判するという事自体であり、それによってほとんどの論者は満足し、また人々に満足を与えていた。詰め込み教育とそれに反対する識者達という構図ばかりがクローズアップされ、それでは詰め込み教育ではない本当に好ましい教育とは何なのか、詰め込み教育に反対する(あるいは当時の教育に肯定的批判的を問わず)人々の間で、真剣に議論されるという事は余りなかった。もちろんそれこそは正しい議論の在り方で、どんな時代にも細々と行われている物だが、誰もが手っ取り早く一端の教育論者になれるもっと大雑把な対立構造の影で、そうした議論は霞んでしまう。

結局、誰もが、確固とした理想的な教育という物がその辺にふわふわと浮いているかのような態度をとり、なんとなくそのような物の存在を想定して、喋ったり、行動したりしている。しかし実際には、そのような理想的な教育とは何なのか誰も知らず、その時々の社会的な雰囲気によって必ずしも合理的ではない合意が大衆的に形成され、それが検討を加えられる機会は(時の経過を待つ以外は)ほとんどないのである。

そして詰め込み教育を批判する声が無視できない大きさになり、そうした主張が教育に関する政策を決定する立場にある人々にまで及ぶと、ゆとり教育が実施された。その途端世間はゆとり教育を批判し学力低下を心配する声に支配されるようになった。ゆとり教育以前には、より学力を向上させるように教育を見直そうなどという声はほとんど聞かれなかったにも関わらずだ。ゆとり教育が実施されるや否や全国的に巻き起こった反発する声を聞いていると、まるで以前の教育が、完璧でかつ理想的な教育であったかに思えてくる。

今や政府自身ゆとり教育を部分的に修正し出したし、学力を向上させる独自のとりくみを行う学校も増えてきた。東京都などではそれはかなり組織的に行われている。

しかし状況は、再び「反転」しただけにすぎず、本質的な状況は何も変わってはいないのだ。確かにゆとり教育には問題があっただろう。そして現状でその幾つかは確かに改善されたかもしれない。しかしまた、そうしたゆとり教育に対する見直しには、ゆとり教育以前の教育を詰め込み教育と呼んで行われた批判が、数多くの点においてそのまま適用可能なのだ。状況は何も変わっていない。

問題の根深さは他の話題からも見て取れる。

例えば、日本の英語教育はかけている労力のわりに効果が薄いとして良く批判される。その問題意識自体は正しいのだろうが、そこで語られる英語教育の理想像を良く聞いてみるとまるでNOVAのような民間の英会話教室が理想的な英語教育を行っているかのように思えてくる。もちろんこうした民間の英会話教室が悪いというわけではないが、その立場は公的な学校教育で行われる英語教育とはかけ離れた位置にあることは確かだろう。それに、英語教育問題を議論している人々がこうした民間の英会話教室を素晴らしい英語教育の理想的な形態捉えているとは思えない。それにも関わらず、彼らの掲げるスローガンは、こうした英会話教室の掲げる宣伝文句と往々にして一致する。結局、ほとんどの場合に、一般的に言って受けの良い表面的な議論しかなされていないのである。

このような状況で現在準備が進められている首都大学東京の英語カリキュラムがトップダウン的にこうした受けが良いだけの「理想」を押し付ける形で作成され、英語教育の現場に携わったり現場を知っている者達からの猛反発に晒されるという事態が生じている。この構造はまさしくゆとり教育問題の構造と同じ物であり、問題の根深さを教えてくれる。問題は決してゆとり教育単独のものではないのである。

こうした状況を象徴する出来事がある。ゆとり教育実施後に初めて全国的に実施された学力テストにおいて学力の水準は大体変化がなく、一部の分野では僅かに向上したという結果が得られたのであるが、その事を紹介した各メディアの記事のタイトルが実に興味深いのである。

「ゆとり教育の成果?基礎学力が向上」
学力テスト:「好成績」戸惑う文科省 なぜ、上向いたのか
「<学力テスト>成績アップ どう評価?揺れる学校現場 」

つまり、ゆとり教育の見直しを行いだした矢先にゆとり教育の成果を示す結果が出てきて困惑しているという事だ。明確な思想の下で定められた方針ではないからこそこのような事が起きる。


テストを実施した国立教育政策研究所の折原守センター長が「真っ青な顔で発表しなければいけないかと思っていたが、青白い顔ぐらいでよかった」と発言したと言うが、そもそも学力の低下がゆとり教育を実施した政府に対する批判の材料になるというのが甚だおかしい話である。

少なくともゆとり教育は、(少なくとも単純な意味での)学力を向上させる為の物ではなかったはずだ。ゆとり教育を提唱した人々は、「テストで数値化されるような点数では本当の能力ははかれない」「社会に出て何の役にも立たないテストで点をとるためだけの勉強ではなく生きる力、考える力を伸ばす教育を」「子供達を偏差値で直線的に並べるのではなく、その個性を重視し伸ばしていこう」などと言っていたはずだ。

例えば以前、国際的な調査で日本の順位が下がったという事でやはり文科省の偉い人が頭を下げていた。しかしながらゆとり教育はこのような単純な数値化による能力評価を良しとしないのだから、胸を張ってそのように抗弁し、生きる力、考える力が向上したか独自の方法で調査すれば良いのだ。それで向上していればやはり胸を張って成果を発表すれば良いし、もし期待した程に生きる力、考える力が向上していなかったのならば、単に問題点を分析し、より生きる力や考える力を伸ばす事ができるように教育を改善すれば良い。

ゆとり教育に賛成であろうと反対であろうと、ゆとり教育が(単純な意味での)学力低下を招く事は容易に想像できるはずだ。従って、ゆとり教育を実施するという事は、ゆとり教育という物を十分に検討して特定の思想の下でそれが十分に正しいと確信し、その思想の合理性についても十分に理論武装し、そして学力低下などを盾にゆとり教育が批判にさらされた場合にきちんと反論してゆとり教育が理解されるよう努めるという覚悟の上での事でなければならない。ゆとり教育政策についての最大の問題は、その成否以前に、このような確信も覚悟も全く存在しなかった事だ。

そうして今、学力低下の傾向が見られないという新しい調査結果を前にして、「やっぱり学力が低下しました、ごめんなさい」と頭を下げる必要がなくなって喜びながらも、現在のゆとり教育見直し路線と矛盾しかねないために少し困っているという。結局教育政策は、その決定に関わる人達相互の力関係の中で落とし所を見つけるという形でのみ決まっていて、それをとりまとめる立場にある人間は結果がどっちに傾こうとも常に板ばさみになって困るという(まあ色々な場面で見る構図ではあるが)、現場と乖離した状況が垣間見えるのだ。

現在ゆとり教育は失敗だったという認識が支配的になっていて、その見直しが進められているが、中にはゆとり教育の方が性に合っていた生徒もいるだろう。それにも関わらず、例えば学力低下のような一般的な傾向を根拠にして方針を転換して良いのだろうか。もし明確な思想の下に教育政策が決められていればこのような突っ込んだ指摘に対して解答したり、あるいは合理的な批判であればそれを取り入れて教育をよりよくする事ができるだろう。この例では抽象的にすぎるが、もしゆとり教育の方が性に合っていた生徒というものがより具体的に説明されれば必ずどちらかが可能だ。というより、そうでなければならない。しかし教育政策が明確な思想を持たなければ、このような突っ込んだ指摘に対して、さらに困惑する事しかできない。

#ただしここで紹介したような記事で注意する必要があるのは、「学力が向上という結果が得られて困った」と言っている人がいるわけではないということである。メディアはいつも自ら板ばさみの板としての役割を積極的に演じようとする。そうして責任ある立場の人間をしがらみで縛って困惑させるものだ。しかしながら文科省の慎重な言い回しを見れば、彼らの困惑が伺えるのは確かである。

現在の教育の抱える最大の問題は、その目的が忘れ去られている事である。
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