RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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エデュケーションツー (2005/05/16(月) 04:51:46)
エデュケーション」の続き。一応校正した後、五月祭で販売する文芸部の静寂に載せるつもり。

「試験のための勉強は悪か」という章を設けるつもりだったのだけれど、時間がないので見送り。その代わりに「大学は言われているほど悪くない」という章を設けたけれど、これは最後にきれいに締めるために入れただけで、主張したかった事そのままではない(書いた事自体は大体思っている事だけれど)。また物理学関係の事も焦点がぼやけてめちゃくちゃになってきたのでだいぶ削った。
.3.目的を忘れた教育
..3.1.素朴である教育目的
 現在の教育の抱える最大の問題は、その目的が忘れ去られている事である。
 どういうわけか直接的、原始的、素朴な目的は、勉強する事、学習する事の動機付けとしては足らない、それどころか不適切ですらあると広く見なされていてるようだ。
 どんな教科の教師も、そのほとんどが、その教科における最大の目的は、その教科の面白さを伝える事であると信じているようだ。熱意ある教師達はそれを使命であると見なしいるらしい。それどころか、どうしてその教科を学ばなければならないのか、そう生徒が教師に問えば、ほとんどの場合教師はその教科がいかに面白いのか語りだすだろう。
 だが、面白さが教科を学ぶ主要な理由であるのならば、ほとんどの生徒にとってゲームや漫画よりも勉強を選択する理由はない。
 僕らは思い出さなければならない。どんな分野も、それが形成されたのは決して面白かったからではないことを。
 僕は大学で理系分野に進んでいて、しかもかなり偏った興味と知識、経験しか持っていない。だからここからは、物理学と数学の本当に初歩的な部分を学んだ経験に基づいて、これらの分野についてだけ語る事にしよう。
 自然科学が生まれたそもそもの理由はそれが面白かったからではないはずだ。それは分からない事を分かる為に作られた一連の方法論だ。もちろんそれは、限定的な状況、条件下で限定的な対象に対してしか適用できない。しかしそれでもそれは非常に強力かつ有用で、現代社会の一つの基盤となった。だから公的な教育において理学系の科目が設けられているのだ。教師達は自信を持ってまず何よりもこの事を語るべきなのだ。
 もっと正確に言えば、公的な教育制度においてこうした分野を教える事になっているのは、社会にとって、そして教育を受ける個人にとって以下のメリットがあるからだ。まず社会にとっては、専門的な知識、技術を持った人間を計画的に育成できる事。そしてこうした専門的な知識や技術を必ずしも必要としない職についたり必要としない人生を歩む人々が社会の大部分を占めるとしても、社会の一つの基盤を成しているこの分野について、ある程度まで知識や認識を誰もが持っているという状況を作り出すことは、社会全体にとって必ず良い影響を与えるだろうと期待できる事。そして個人にとっては、専門的な知識や技術を身につける機会を平等に与えられ、そうした知識や技術を必要とする専門的な職業を目指す事が許されるという事。そしてこの分野の専門的な職業に進まない人間でも、この分野について一定の知識と認識を持つことはその人生や仕事にとって必ず有益であると期待できるという事。すなわち教育がこの分野を扱う目的は、一つには専門的知識、技術を持つ人間の育成であり、そして教養教育である。
 しかしこの教養教育という側面は現在では相当に軽視されているようだ。実際、「人々が教養として自然科学の知識を持つ事は社会全体にとって有益であろう」という考え方の大本は、明治時代にまで遡れば日本社会の近代化、西欧化に辿り着く。つまり、多くの人間が何の疑問も持たずに家業を継いでいく余り進歩のない社会を変えるためと、外国人と日本人が対面した時に相手が知っていて日本人が知らない事があるという事が長期的な視点で見れば必ず日本側にとって不利に働くためだ。しかし今や就職活動はほとんど制度的に運用されているし、西欧に対する劣等感と西欧化に対する強迫観念が一度薄れてみれば、科学的教養を持っていない事によって不利になる局面という物を経験する事はほとんど滅多にない。そうして、学校で学んだ事は研究職のような特定の専門職に就く人以外にとっては社会に出れば役に立たない物だと誰もが当たり前のように言うようになったのだ。学校の先生でさえも。
 これはある程度正しくある程度正しくない。
 現在においても、自然科学という物は単なる西欧文化の象徴という事でなしに世界的に認められた普遍的な知識と技術の体系であり、教養としてその一定の部分を学ぶ事には必ず意味がある。そして科学知識の欠如は間接的に社会全体に悪い影響を与えるだろう。個人と個人が対面した時に一方の科学的知識が他方より劣っていれば全く間接的にではあるが、科学的知識が劣っている方が不利となる。この事は国際化の進行と共により重要になるだろう。
 そしてこの点に関する限り、教師達は、自然科学を学ぶのはそれが有用で強力で近代社会の発展に大きく貢献した/している方法論であるから単に教養として学ぶべきなのだ、と自信と誇りを持って宣言すれば良い。
 しかしまた、教養教育的な場面において、過度に高度な内容が教えられている事も確かだろう。この点については単に十分に検討して、専門的な事項とみなされる部分は専門的な教育を必要とする者だけが学ぶようにすれば良い。
 ところが実際には、教育者や教育行政に携わる人達が率先して、教育の目的を見失ってしまっている。
 例えば生徒達に対して、理科の学習が日常生活に役立っていると感じるか、というアンケートを行い、「理科が日常生活に役立たないと感じている生徒が大半であった。もっと日常生活と関連させた指導を行わなければいけない」と結論した全く持って下らない小学生の夏休みの自由研究のような調査があった。僕は少なくとも物理学の今まで学んできた部分に関しては標準的なレベルよりは深く理解しているつもりであるが、これが日常生活において役に立った事などほとんどない。そしてそれは当たり前である。なぜなら、物理学は、そしてほとんどの学問分野は、そもそも、日常生活において直接的に役立てるために作られた物ではないからだ(もちろん間接的には大いに役立っているだろうが、僕らが直接それらの知識を使って電子レンジを作る事などない)。もちろん物理学の知識が偶々役に立つ事はあるだろうがそれは物理学の全てを占めているわけでも、重要な位置を占めているわけでもない。物理学の一つの興味の対象である天体の運動についての知識が、日常生活に関わってくるとは思えない。
 そう、問題がややこしいのは、教育がその目的を喪失している事だけではなく、教育の姿がある程度固定されてしまっていて、教育者達が後付けの目的、理由、動機付け―面白い、日常生活で役立つ、自ら考える力を育てる、問題解決の方法を身につける―をやっきになって見つけてきてはそれをまことしやかに提示している事だ。ゆとり教育における「生きる力」「考える力」はまさしくそうした物だったが、ゆとり教育がこれだけ批判に晒されてなお、このような現象をそこかしこで見る事ができるし、こうした後付けの学習に対する動機付けはどこでも大きな顔をしている。ここでもゆとり教育問題の本質的な問題点は何ら解決されていないのだ。しかしそうした動機付けが取って付けた後付けに過ぎず、教育者達自身が教育の目的を見失っている事に生徒達は敏感だ。そのような状況は、教師自身が「学校で学ぶ事には何の意味のない」と発言するよりもはるかに説得力を持って生徒達に学校における学習が意味がないと感じさせる。子供は大人に反発する物だから。
 教育者達が語るこうした後付けの学習の動機に説得力がないのは、それがまず結論ありきの主張だからだ。つまり、例えば数学ならば、数学を学ぶのは数学を知り、理解するためだ、と自身を持って言う事のできない教師が、しかし数学という科目は存在していてしかも自分はそれを教えなければいけないから、少しでも生徒達の学習意欲の足しになれば、と「論理的思考能力を身につけるために数学という科目があるのだ」というわけだ。これはまず結論ありきの主張で、決してある目的があって、その目的を実現するために数学という科目が存在するという議論ではない。だから、論理的思考能力を身につけるためならば、パズルでもやっていれば良いじゃないか、と言われても効果的な反論はできない。そして生徒にしてみても、数学を学習する代わりに何らかのパズルをせっせと解いていても、結局数学の単位をもらわなければ進級できず、そのためには試験に受からなければいけないのは初めから分かりきっているのである。教師の言葉が真摯な主張として生徒達の心に届くわけがない。
 もし教育のある部分が本当に無意味ならば単に中止するべきだ。そして従来とは異なる教育の目的が何らかの理由により浮上してきたなら、真剣に、真摯にその目的を実現するためにはどのような教育を行うべきか検討すべきなのだ。日常生活で役立てるために教育を行うならば、明らかに物理学を学ぶよりもおばあちゃんの知恵袋を読むべきだ。
 これは皮肉ではない単なる主張である。公的な教育制度の人生に占める割合は現代では非常に大きい。仮にそれを一人当たり5年分だとしよう(あまり数字的根拠はないが少なく見て大体これくらいであろう)。すると、もし教育が本当に無駄で役に立たないのならば、(日本人の平均寿命は80才くらいだから)16人に対して一人分の殺人が行われたような物だ。教育とはそれほどまでに重大な責任を負った制度なのだ。それにも関わらず教育は長い間、学校で習った事は役に立たない、試験のための勉強には意味がないと言い続けながら、同時に、冷酷にも僕らの一日の大部分を拘束して授業を行い、中間や期末の時期になれば全く事務的に試験を行ってきた。その無責任な態度は正に犯罪的ですらある。
 もちろんそれにも関わらず僕が教育を廃止した上で改めて再構築せよ、と言わないのは、現在の教育がそれほどまでに無意味であるとは思っていないからだ。確かに現在の教育は理想的というには程遠いかもしれないが、またそう簡単に批判できる代物でもない。それは長い歴史と年月の重みを背負って確立された、無難で、標準的で、伝統的な教育だ。無難で、標準的で、伝統的である事を重んじる事には慎重でなければいけないが、現在の教育が抱えている問題の多くは、その重みを軽んじて深く考えないその場限りの思いつきによる修正を繰り返した結果であると見なすべきだ。そしてゆとり教育に対して巻き起こった非難の嵐から考えて、誰もが本当はその事を分かっているはずだ。
 僕が高校生だった時、古文の授業を担当していた先生が、「一体なぜ古文なんていう科目があるのか。そんな物は全く必要ないじゃないか。皆さんはそう思っているかも知れません。しかし必要ある事だけを追い求めて現在のおかしな社会があるのですから、もうそろそろ必要な事だけをするのはやめにするべきではないでしょうか」と語った事がある。
 もちろんこの教師は生徒達が短絡的に古文という科目を軽視している現状を憂い、文字通りの内容ではなく、狭い視点、貧しい価値観の下で不要と見なす物の中にも必要な物があるという事を伝えようとしたのだろう。だがそれでも僕には、その教師が、古文という科目があるのは古典を読めるようになるため、そして古典を読むためであると断言できなかった事が非常に残念に思えた。
 この科目を学ぶのは、その分野について学び、知り、理解し、(応用的な部分については)使えるようになるためである、そう断言できなくなった時、教育は死んだのだ。そして本当にそのような目的における教育がもはや意味を失ったのなら僕らは教育を廃止し、もし必要ならば他の目的の下で新しい教育を作るべきだろう。だが、そうではない。教育は意味を失ってはいない。だからこそ教育者達は、再び教育のその最も素朴な原初の目的を再確認し、数学を学ぶのは数学を知り理解するためだ、歴史を学ぶのは歴史について知り日本がまた人類がどのような歴史を辿ってきたのか理解するためだ、国語を学ぶのは僕らの母語について理解し日本文学を知るためだ、そう自信と誇りを持って断言できるようにならなければならない。もちろんただ言うだけで良いというものではない。このような自信と誇りは自分が教える分野に関しての深い知識と理解を通して培われなければならない。

..3.2.面白さを伝える事は教育の目的か
 教育に対する取って付けた後付けの理由付けは、ほとんどの大人達が持っている学校教育に対する良くない思い出と絡み合って、教育の姿勢自体を著しく歪ませる。
 典型的なのが様々な場面で強調される、その分野の、あるいは学習の面白さだろう。冷静に考えてみれば面白さと学習の動機とは直接的な関係はない。面白いにこした事はないという程度に過ぎない。面白い事が行動の最大の動機たり得るのならば、ほとんどの子供は勉強よりもテレビゲームを選ぶだろう。
 面白さが強調される主要な理由は、単にほとんどの人にとって面白い事は苦痛なく自発的に取り組めるからだ。しかしながら面白さを強調する余り、ここまで述べたようなどんな科目も面白いから設けられたわけではない、という根本的な問題の外に、二つの問題が生じる。一つは、学習をする動機は様々であってよく、「その科目を面白く感じられない者にもその科目を胸を張って学ぶ資格がある」という事が忘れられてしまうこと。そしてもう一つは、短絡的に面白く感じられる部分に教育が偏る事だ。
 例えば数学では、「決まった問題の解き方を覚えるだけの勉強では数学の本当の面白さは伝わらない。例えば幾何学では思いもかけない一本の補助線が鮮やかに定理を証明する事がある。そういった所にこそ数学の面白さがあるのであり、もっとこういった個性的な直感やひらめきを重視すべきだ」といった主張を良く見かける。
 確かに小学校や中学校で学んだ初等的なユークリッド幾何学はパズルのようで面白かった。どうすれば証明できるのか見当もつかない定理がたった一本の補助線で明快に証明される様にわくわくした人も多かったのではないだろうか。しかしながら中学校では座標が導入されて図形の問題でも次第に計算問題が増えるようになり、そして高校では直線や円は座標上での方程式に姿を変え、ただ苦痛なだけで面白くも何ともない計算をたくさんする事になる。例えば三つの直線がただ一点で交わる事を証明するのに、もはや補助線は必要ない。二つの直線の交点を計算し、もう一つの直線上にその点が乗っている事をただ確かめるだけだ。その計算はただただ面倒で時間がかかるだけで面白くも何ともない、むしろ非常につまらない代物だ。
 しかし、自然科学が分からない事を分かろうとしてできたのだという根本を理解していれば、この「つまらない」という事が非常に素晴らしい事である事が分かるはずだ。
 自然科学は普遍性を目指す。普遍性とは、いつでもどこでも成り立つというだけではなく、誰にでも使えるという事をも表す。自然科学は初めから愚者の為にある。そして一般人から見れば愚者からは程遠い所にいる数学者達にとっても、ひらめきや直感に依存した状態というのは好ましくない。なぜならば、今日の疑問に答えを与える事ができても、明日の疑問に答えを与える事ができるとは、彼らでさえ確信する事ができないからだ。一つや二つの目覚しい研究成果が斬新な発想や着眼、ひらめきによって成されたなら彼らも互いに賞賛して成果を讃えるだろう。だが、ある狭い分野の余り大して違わない問題設定に対し、一々異なる個別のひらめきが必要となれば、むしろ手法の未熟さが我慢ならない物として感じられるようになる。そうして研究は、広い適用範囲を持つ一般性を持った構造を探し、その適切な表現方法を考え、問題解決に当たっての適用範囲の広い一般的で機械的な手順の構築へと進むのだ。そうしてそれが実現すれば、その種の問題は、もはや面倒なだけの機械的な手順によって対処される事になる。そして、一部の天才だけがひらめきによって解き得た問題は、万人が一定の手順に従えば必ず扱える問題となるのである。
 もちろん、一般的で機械的な手順を構築する事を繰り返すだけならば、数学はここまで発展する事はできなかっただろう。天才達の豊かな発想と直感が、様々な場面で一歩先の数学を垣間見せ、あるいは近道としての役割を果たした事は確かだ。そしてまた現在でも、そのような一般的で機械的な手順が存在する領域というのは、限られた分野の、ごく限られた領域の、これまたごく限られた一部の問題設定に対してだけである。つまり、小手先のひらめきや発想では太刀打ちできないような問題を、先人達が十分に整備した一般的で機械的な手順に基づいて全く頭を働かせることなく解決するのも数学の一側面であるし、またそのような機械的な手順が全く存在しない手ごわい問題を、斬新な発想や天才的な直感、ひらめきによって鮮やかに解決するのもまた数学である。これらはどちらかに偏ってはならないのはもちろんだが、後者は基本的には数学者の仕事であり、公的な教育が力をおくべきなのは前者である事は明らかであろう。
 このように、ひらめきや発想が必要なのはその段階の数学が未熟であるせいで、さらに学習を進めれば才能に関係なく努力さえすれば一定の問題に対処できるようになるのである。それは素晴らしい事であり、数学の一つの目的であり、そして教育の目的である。もちろんそこに至って学び、実行する機械的な手順という奴は、面白くも何ともない代物だろう。だが、その「面白くない」という部分にこそ珠玉の価値があるのである。
 このように、数学はそれ自体ある強烈な目的意識の下で作られた、特定の領域に対して有用で強力な方法論と知識の体系なのであるから、教師達がまずすべき事は、生徒達の奴隷のように生徒達に面白く感じられそうな題材を探してきては「どうですかね、これで勉強する気になってはくれないですかね~?」とぺこぺこする事なんかではなく、自分が理解している所の数学の持つ目的意識と問題意識、そして数学の内容その物を正確に、的確に、伝えようとする事だ。こうして書いてみれば大した事ではない、最も基本的で当然の事なのであるが、それ故にこの事は軽視されがちなのである。もちろん、精神的に未熟な子供達を適切に導くのも教師の仕事であるから、そういった目的で生徒が面白く感じやすいネタ、興味を持ちやすい話題を効果的に使うのならばそれは批判されるようなものではない。しかしそれはあくまで二次的な物である事を必ず認識しなければならない(そしてほとんどの場合認識されていないだけでなくそれが教育の全てであるかのように思われている場合が多い)。
 ここまでの数学の話で、ひらめきや発想という物が出てきた。ひらめきや発想を重視するというのも目的を失った教育の迷走する一つの姿である。この事を物理学との関連で少し述べておこう。
 高校での物理学で扱う事のほとんどは、物理学の誰にでも扱えるよう整理された部分だけである。そこからはみ出す部分についてはごくごく初歩的な事しか扱わない。
 ところが多くの教師が、物理的直感とかイメージばかり(物理ではさすがにひらめきや発想は余り強調されない。しかしその役割は似たようなものだ)を強調して、物理学の各々の分野が、どういった現象を対象としていて、その領域にある現象を扱う上での一般的で、機械的な手順とはどのようになっているのか、明示的に教えてはくれない。
 問題の解き方を教えるという事に教師達が感じる謂れのない後ろめたさがこの状況に一役買っている。この、物理学の誰にでも扱える部分しか出てこないという事は、正しく理解していれば(試験や問題集の)問題が必ず解けるという事であるからだ。では、生徒に問題を解かし、点数を取らせて何ぼの予備校や塾はどうかというと、やはり物理的直感を持とう、イメージを持とうとばかり言う。
 こうした状況が生まれた一つの理由は、教える立場にある者が、まず学習者との上下関係を築こうとするからであろう。それにより精神的な満足感が得られるし、教える上でも色々と都合が良い。例えば質問を受けた場合、生徒は心底納得しなくても、教師が自信ありげに説明しているという事実によって、満足したりするだろう。また、予備校や塾にとって、受験、教育のエキスパートが秘奥義を伝授する、という形式の確立は何をおいても最優先事項なのだ。
 しかしながらもし真剣に物理学を教えようとするのならば、物理学が如何に強力で有用な、普遍性(いつでもどこでも成り立ち誰にでも使える)を持った方法論であるのか、あるいはそのような方法論となる事を目指しているという点について、正しく伝えるべきである事は明らかだ。まず何にもまして伝えるべきは、面白さでもなく、イメージや直感といった良く分からない物でもない、物理学のありのままの姿だ。
 そしてこうした素朴でしかし真摯な教育の結果として、生徒がその科目を面白いと感じたならば、こんどこそそれは、生徒を唆して勉強させるために人為的に演出された表面的な面白さではない、その分野に対する真実の面白さであると言う事ができるだろう。それは素晴らしい事で、今度こそ歓迎すべき物だ。
 実際、自然科学の各々の分野に携わる人々はその分野の目的意識、その分野の興味が向けられる所に共感してその分野に進んだ場合が多いだろう。それはつまりその分野を面白いと思ったという事だ。特に、自然科学は初めは貴族の娯楽であったから、そのような面白いという感情抜きには自然科学が芽生えることすらなかっただろう。
 そしてそのような面白さを感じる事のできなかった生徒も、大抵の場合教養として、あるいは他分野において実用的に活かすなど何らかの意味を見出す事ができるだろうし、(ちゃんと食らいついて学べば)その分野について正しく理解したと自信を持って宣言できるようになるだろう。それは、その生徒がその分野の目的意識に共感しようとしまいと、それ自体誇るべき事だ。

..3.3.大学は言われているほど悪くない
 ところで、大学の先生もしばしば「この講義で○○の面白さを伝えたい」というような事を言うが、これはここまでで批判したような意味での面白さではなく、最後に言及したその分野の真実の面白さを意味している事が多い。つまり、彼らが面白さを伝えるとは、その分野の興味がどこにあり、何を目的意識としているか正しく伝え、その問題意識を共有しようとする、という事なのである。このような学問に対して真摯な姿勢を持つ先生達の講義は、その分野の姿をありのままに伝えようとする実に誠実な物であり、それ故得る物は非常に大きいのである。ある時はその分野の目的意識に共感して確かにその分野を面白いと感じるし、そうでない時にも真剣に学べば分かった積もりに留まらない本当の理解に至る事ができる。
 表面的な面白さや分かり易さを重視する視点から、しばしば予備校の教師という物が教育技術のプロフェッショナルで、学校の教師は教える技術という点で劣るという人がいる。僕は予備校の授業という物を受けた事はないが、受験時代には予備校が出版している参考書のお世話にもなった。しかしその経験から言って、予備校での教育という物が(学習の目的を受験合格に絞ったとしても)それ程良いものとは思えないのだ。
 特に、先に書いたようにこうした塾産業の多くは、試験問題の解き方に対するエキスパートとしての立場に立脚している。だから、予備校講師の位置に到達したり、さらに超えてしまうといった事が原理的にできないような仕組みになっている。最近流行のカリスマ講師の存在などはその象徴だろう。
 しかしながら大学ではそうではない。誠実な姿勢を持った多くの先生達は、もちろん僕ら学生よりもはるかに多くの知識と、多くの分野に対する深い理解をもっているわけだが、その担当する講義において扱う事項に関する限り、学生が先生と同じ(あるいは超えた)レベルの理解に達する事ができるのが当然であると見なしている。何しろ学問の世界では、ある事を本当に理解し納得したという事は、人に説明して理解し納得してもらえるという事なのだ。予想される疑問点について納得いくまで(というか要は自分にとって疑問の余地がなくなるまで)検討した上で講義に臨むから、それらを全てきちんと説明すれば誰もが必ず完璧な理解に達するだろうと確信し、期待できるのである。
 もちろん物事はそれほど上手くはいかない。これはつまり、先生が全く手加減しないという事だからだ。だからむしろ、僕ら学生にとってこうした先生の講義についていく事は大変な困難を伴う。大抵の場合どこかでついていけなくなる。それでも、このように誠実な姿勢で行われる講義には、その分野の真実の姿を垣間見るのだ。
 僕は恐らくは恵まれているのだと思う。ここで書いたような誠実な姿勢を持った先生に、地元の市立の小学校、有名進学校である中学校、高校で常に何人かずつ出会っているからである。しかし大学に入って驚いたのは、周りから聞こえてくる否定的な声とは裏腹に、大学の教育の質が非常に高く、ここで書いたような誠実な姿勢の先生が数多くいた事だ。何だか最近、大学の講義はつまらない、役に立たない、とにかく駄目だ、という風潮があり、事もあろうに予備校を教育のエキスパートとして担ぎ出す風潮が強く、それに対して大学は萎縮して改革や改善を急いでいる。しかしながら僕には現在の大学の教育はそんなに悪くないと感じられるのだ。先にも書いたように現状維持という主張はとかく弱くなりがちであるし、実際消極的姿勢に基づく現状維持論というのはどうしようもない代物だが、大学はもっと自分達がやっている事に自信と誇りを持つべきだろう。今の大学には本当の意味での学問の面白さを学生に感じさせる環境が確かに存在しているのだ。
 僕は他大の授業という物は見たことはないが、お世話になる事の多いインターネット上の講義ノートや、他大の先生達のWEBサイトから、他大の状況もそれほど違わないと感じられる。
 確かに大学の先生達は教育のエキスパートではない。だが、学問のエキスパートだ。この事の意味はとかく否定的な意味で捉えられがちだけれども、実は非常に大きいのだと思うのだ。
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コメント
この記事へのコメント
2005/05/16(月) 12:52:49 |でろでーろ|URL | #vXeIqmFk[ 編集]
かなりその通りだとおもうけど長くて読むのが疲れる
2005/05/18(水) 02:47:59 |nuc|URL | #-[ 編集]
<中略>けど今日レポートでたよ
にゃ
2005/05/18(水) 02:57:37 |Ruke|URL | #.85f1Vro[ 編集]
まあ、僕が偉そうに書く文章は、結局は大した事言ってなくて問題意識を共有してもらう事が全てなので…。

レポート?量子力学?
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