RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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エデュケーションツーカイ (2005/05/20(金) 03:16:43)
後半部分を大幅に変更した。

.3.目的を忘れた教育
..3.1.素朴である教育目的
 現在の教育の抱える最大の問題は、その目的が忘れ去られている事である。
 どういうわけか直接的、原始的、素朴な目的は、勉強する事、学習する事の動機付けとしては足らない、それどころか不適切ですらあると広く見なされていてるようだ。
 どんな教科の教師も、そのほとんどが、その教科における最大の目的は、その教科の面白さを伝える事であると信じているようだ。熱意ある教師達はそれを使命であると見なしいるらしい。それどころか、どうしてその教科を学ばなければならないのか、そう生徒が教師に問えば、ほとんどの場合教師はその教科がいかに面白いのか語りだすだろう。
 だが、面白さが教科を学ぶ主要な理由であるのならば、ほとんどの生徒にとってゲームや漫画よりも勉強を選択する理由はない。
 僕らは思い出さなければならない。どんな分野も、それが形成されたのは決して面白かったからではないことを。
 僕は大学で理系分野に進んでいて、しかもかなり偏った興味と知識、経験しか持っていない。だからここからは、物理学と数学の本当に初歩的な部分を学んだ経験に基づいて、これらの分野について主に語る事にしよう。しかし分野が違えば細かな事情は異なる物の、ここで提示した問題意識は、おそらくはあらゆる分野、あらゆる状況で有効だ。
 自然科学が生まれたそもそもの理由はそれが面白かったからではないはずだ。それは分からない事を分かる為に作られた一連の方法論だ。もちろんそれは、限定的な状況、条件下で限定的な対象に対してしか適用できない。しかしそれでもそれは非常に強力かつ有用で、現代社会の一つの基盤となった。だから公的な教育において理学系の科目が設けられているのだ。教師達は自信を持ってまず何よりもこの事を語るべきなのだ。
 もっと正確に言えば、公的な教育制度においてこうした分野を教える事になっているのは、社会にとって、そして教育を受ける個人にとって以下のメリットがあるからだ。まず社会にとっては、専門的な知識、技術を持った人間を計画的に育成できる事。そしてこうした専門的な知識や技術を必ずしも必要としない職についたり必要としない人生を歩む人々が社会の大部分を占めるとしても、社会の一つの基盤を成しているこの分野について、ある程度まで知識や認識を誰もが持っているという状況を作り出すことは、社会全体にとって必ず良い影響を与えるだろうと期待できる事。そして個人にとっては、専門的な知識や技術を身につける機会を平等に与えられ、そうした知識や技術を必要とする専門的な職業を目指す事が許されるという事。そしてこの分野の専門的な職業に進まない人間でも、この分野について一定の知識と認識を持つことはその人生や仕事にとって必ず有益であると期待できるという事。すなわち教育がこの分野を扱う目的は、一つには専門的知識、技術を持つ人間の育成であり、そして教養教育である。
 しかしこの教養教育という側面は現在では相当に軽視されているようだ。実際、「人々が教養として自然科学の知識を持つ事は社会全体にとって有益であろう」という考え方の大本は、明治時代にまで遡れば日本社会の近代化、西欧化に辿り着く。つまり、多くの人間が何の疑問も持たずに家業を継いでいく余り進歩のない社会を変えるためと、外国人と日本人が対面した時に相手が知っていて日本人が知らない事があるという事が長期的な視点で見れば必ず日本側にとって不利に働くためだ。しかし今や就職活動はほとんど制度的に運用されているし、西欧に対する劣等感と西欧化に対する強迫観念が一度薄れてみれば、科学的教養を持っていない事によって不利になる局面という物を経験する事はほとんど滅多にない。そうして、学校で学んだ事は研究職のような特定の専門職に就く人以外にとっては社会に出れば役に立たない物だと誰もが当たり前のように言うようになったのだ。学校の先生でさえも。
 これはある程度正しくある程度正しくない。
 現在においても、自然科学という物は単なる西欧文化の象徴という事でなしに世界的に認められた普遍的な知識と技術の体系であり、教養としてその一定の部分を学ぶ事には必ず意味がある。そして科学知識の欠如は間接的に社会全体に悪い影響を与えるだろう。個人と個人が対面した時に一方の科学的知識が他方より劣っていれば全く間接的にではあるが、科学的知識が劣っている方が不利となる。この事は国際化の進行と共により重要になるだろう。
 そしてこの点に関する限り、教師達は、自然科学を学ぶのはそれが有用で強力で近代社会の発展に大きく貢献した/している方法論であるから単に教養として学ぶべきなのだ、と自信と誇りを持って宣言すれば良い。
 しかしまた、教養教育的な場面において、過度に高度な内容が教えられている事も確かだろう。この点については単に十分に検討して、専門的な事項とみなされる部分は専門的な教育を必要とする者だけが学ぶようにすれば良い。
 ところが実際には、教育者や教育行政に携わる人達が率先して、教育の目的を見失ってしまっている。
 例えば生徒達に対して、理科の学習が日常生活に役立っていると感じるか、というアンケートを行い、「理科が日常生活に役立たないと感じている生徒が大半であった。もっと日常生活と関連させた指導を行わなければいけない」と結論した全く持って下らない小学生の夏休みの自由研究のような調査があった。僕は少なくとも物理学の今まで学んできた部分に関しては標準的なレベルよりは深く理解しているつもりであるが、これが日常生活において役に立った事などほとんどない。そしてそれは当たり前である。なぜなら、物理学は、そしてほとんどの学問分野は、そもそも、日常生活において直接的に役立てるために作られた物ではないからだ(もちろん間接的には大いに役立っているだろうが、僕らが直接それらの知識を使って電子レンジを作る事などない)。もちろん物理学の知識が偶々役に立つ事はあるだろうがそれは物理学の全てを占めているわけでも、重要な位置を占めているわけでもない。物理学の一つの興味の対象である天体の運動についての知識が、日常生活に関わってくるとは思えない。
 そう、問題がややこしいのは、教育がその目的を喪失している事だけではなく、教育の姿がある程度固定されてしまっていて、教育者達が後付けの目的、理由、動機付け―面白い、日常生活で役立つ、自ら考える力を育てる、問題解決の方法を身につける―をやっきになって見つけてきてはそれをまことしやかに提示している事だ。ゆとり教育における「生きる力」「考える力」はまさしくそうした物だったが、ゆとり教育がこれだけ批判に晒されてなお、このような現象をそこかしこで見る事ができるし、こうした後付けの学習に対する動機付けはどこでも大きな顔をしている。ここでもゆとり教育問題の本質的な問題点は何ら解決されていないのだ。しかしそうした動機付けが取って付けた後付けに過ぎず、教育者達自身が教育の目的を見失っている事に生徒達は敏感だ。そのような状況は、教師自身が「学校で学ぶ事には何の意味のない」と発言するよりもはるかに説得力を持って生徒達に学校における学習が意味がないと感じさせる。子供は大人に反発する物だから。
 教育者達が語るこうした後付けの学習の動機に説得力がないのは、それがまず結論ありきの主張だからだ。つまり、例えば数学ならば、数学を学ぶのは数学を知り、理解するためだ、と自身を持って言う事のできない教師が、しかし数学という科目は存在していてしかも自分はそれを教えなければいけないから、少しでも生徒達の学習意欲の足しになれば、と「論理的思考能力を身につけるために数学という科目があるのだ」というわけだ。これはまず結論ありきの主張で、決してある目的があって、その目的を実現するために数学という科目が存在するという議論ではない。だから、論理的思考能力を身につけるためならば、パズルでもやっていれば良いじゃないか、と言われても効果的な反論はできない。そして生徒にしてみても、数学を学習する代わりに何らかのパズルをせっせと解いていても、結局数学の単位をもらわなければ進級できず、そのためには試験に受からなければいけないのは初めから分かりきっているのである。教師の言葉が真摯な主張として生徒達の心に届くわけがない。
 もし教育のある部分が本当に無意味ならば単に中止するべきだ。そして従来とは異なる教育の目的が何らかの理由により浮上してきたなら、真剣に、真摯にその目的を実現するためにはどのような教育を行うべきか検討すべきなのだ。日常生活で役立てるために教育を行うならば、明らかに物理学を学ぶよりもおばあちゃんの知恵袋を読むべきだ。
 これは皮肉ではない単なる主張である。公的な教育制度の人生に占める割合は現代では非常に大きい。仮にそれを一人当たり5年分だとしよう(あまり数字的根拠はないが少なく見て大体これくらいであろう)。すると、もし教育が本当に無駄で役に立たないのならば、(日本人の平均寿命は80才くらいだから)16人に対して一人分の殺人が行われたような物だ。教育とはそれほどまでに重大な責任を負った制度なのだ。それにも関わらず教育は長い間、学校で習った事は役に立たない、試験のための勉強には意味がないと言い続けながら、同時に、冷酷にも僕らの一日の大部分を拘束して授業を行い、中間や期末の時期になれば全く事務的に試験を行ってきた。その無責任な態度は正に犯罪的ですらある。
 もちろんそれにも関わらず僕が教育を廃止した上で改めて再構築せよ、と言わないのは、現在の教育がそれほどまでに無意味であるとは思っていないからだ。確かに現在の教育は理想的というには程遠いかもしれないが、またそう簡単に批判できる代物でもない。それは長い歴史と年月の重みを背負って確立された、無難で、標準的で、伝統的な教育だ。無難で、標準的で、伝統的である事を重んじる事には慎重でなければいけないが、現在の教育が抱えている問題の多くは、その重みを軽んじて深く考えないその場限りの思いつきによる修正を繰り返した結果であると見なすべきだ。そしてゆとり教育に対して巻き起こった非難の嵐から考えて、誰もが本当はその事を分かっているはずだ。
 僕が高校生だった時、古文の授業を担当していた先生が、「一体なぜ古文なんていう科目があるのか。そんな物は全く必要ないじゃないか。皆さんはそう思っているかも知れません。しかし必要ある事だけを追い求めて現在のおかしな社会があるのですから、もうそろそろ必要な事だけをするのはやめにするべきではないでしょうか」と語った事がある。
 もちろんこの教師は生徒達が短絡的に古文という科目を軽視している現状を憂い、文字通りの内容ではなく、狭い視点、貧しい価値観の下で不要と見なす物の中にも必要な物があるという事を伝えようとしたのだろう。だがそれでも僕には、その教師が、古文という科目があるのは古典を読めるようになるため、そして古典を読むためであると断言できなかった事が非常に残念に思えた。
 この科目を学ぶのは、その分野について学び、知り、理解し、(応用的な部分については)使えるようになるためである、そう断言できなくなった時、教育は死んだのだ。そして本当にそのような目的における教育がもはや意味を失ったのなら僕らは教育を廃止し、もし必要ならば他の目的の下で新しい教育を作るべきだろう。だが、そうではない。教育は意味を失ってはいない。だからこそ教育者達は、再び教育のその最も素朴な原初の目的を再確認し、数学を学ぶのは数学を知り理解するためだ、歴史を学ぶのは歴史について知り日本がまた人類がどのような歴史を辿ってきたのか理解するためだ、国語を学ぶのは僕らの母語について理解し日本文学を知るためだ、そう自信と誇りを持って断言できるようにならなければならない。もちろんただ言うだけで良いというものではない。このような自信と誇りは自分が教える分野に関しての深い知識と理解を通して培われなければならない。

..3.2.面白さを伝える事は教育の目的か
 教育に対する取って付けた後付けの理由付けは、ほとんどの大人達が持っている学校教育に対する良くない思い出と絡み合って、教育の姿勢自体を著しく歪ませる。
 典型的なのが様々な場面で強調される、その分野の、あるいは学習の面白さだろう。冷静に考えてみれば面白さと学習の動機とは直接的な関係はない。面白いにこした事はないという程度に過ぎない。面白い事が行動の最大の動機たり得るのならば、ほとんどの子供は勉強よりもテレビゲームを選ぶだろう。
 面白さが強調される主要な理由は、単にほとんどの人にとって面白い事は苦痛なく自発的に取り組めるからだ。しかしながら面白さを強調する余り、ここまで述べたようなどんな科目も面白いから設けられたわけではない、という根本的な問題の外に、二つの問題が生じる。一つは、学習をする動機は様々であってよく、「その科目を面白く感じられない者にもその科目を胸を張って学ぶ資格がある」という事が忘れられてしまうこと。そしてもう一つは、短絡的に面白く感じられる部分に教育が偏る事だ。
 例えば数学では、「決まった問題の解き方を覚えるだけの勉強では数学の本当の面白さは伝わらない。例えば幾何学では思いもかけない一本の補助線が鮮やかに定理を証明する事がある。そういった所にこそ数学の面白さがあるのであり、もっとこういった個性的な直感やひらめきを重視すべきだ」といった主張を良く見かける。
 確かに小学校や中学校で学んだ初等的なユークリッド幾何学はパズルのようで面白かった。どうすれば証明できるのか見当もつかない定理がたった一本の補助線で明快に証明される様にわくわくした人も多かったのではないだろうか。しかしながら中学校では座標が導入されて図形の問題でも次第に計算問題が増えるようになり、そして高校では直線や円は座標上での方程式に姿を変え、ただ苦痛なだけで面白くも何ともない計算をたくさんする事になる。例えば三つの直線がただ一点で交わる事を証明するのに、もはや補助線は必要ない。二つの直線の交点を計算し、もう一つの直線上にその点が乗っている事をただ確かめるだけだ。その計算はただただ面倒で時間がかかるだけで面白くも何ともない、むしろ非常につまらない代物だ。
 しかし、自然科学が分からない事を分かろうとしてできたのだという根本を理解していれば、この「つまらない」という事が非常に素晴らしい事である事が分かるはずだ。
 自然科学は普遍性を目指す。普遍性とは、いつでもどこでも成り立つというだけではなく、誰にでも使えるという事をも表す。自然科学は初めから愚者の為にある。そして一般人から見れば愚者からは程遠い所にいる数学者達にとっても、ひらめきや直感に依存した状態というのは好ましくない。なぜならば、今日の疑問に答えを与える事ができても、明日の疑問に答えを与える事ができるとは、彼らでさえ確信する事ができないからだ。一つや二つの目覚しい研究成果が斬新な発想や着眼、ひらめきによって成されたなら彼らも互いに賞賛して成果を讃えるだろう。だが、ある狭い分野の余り大して違わない問題設定に対し、一々異なる個別のひらめきが必要となれば、むしろ手法の未熟さが我慢ならない物として感じられるようになる。そうして研究は、広い適用範囲を持つ一般性を持った構造を探し、その適切な表現方法を考え、問題解決に当たっての適用範囲の広い一般的で機械的な手順の構築へと進むのだ。そうしてそれが実現すれば、その種の問題は、もはや面倒なだけの機械的な手順によって対処される事になる。そして、一部の天才だけがひらめきによって解き得た問題は、万人が一定の手順に従えば必ず扱える問題となるのである。
 もちろん、一般的で機械的な手順を構築する事を繰り返すだけならば、数学はここまで発展する事はできなかっただろう。天才達の豊かな発想と直感が、様々な場面で一歩先の数学を垣間見せ、あるいは近道としての役割を果たした事は確かだ。そしてまた現在でも、そのような一般的で機械的な手順が存在する領域というのは、限られた分野の、ごく限られた領域の、これまたごく限られた一部の問題設定に対してだけである。つまり、小手先のひらめきや発想では太刀打ちできないような問題を、先人達が十分に整備した一般的で機械的な手順に基づいて全く頭を働かせることなく解決するのも数学の一側面であるし、またそのような機械的な手順が全く存在しない手ごわい問題を、斬新な発想や天才的な直感、ひらめきによって鮮やかに解決するのもまた数学である。これらはどちらかに偏ってはならないのはもちろんだが、後者は基本的には数学者の仕事であり、公的な教育が力をおくべきなのは前者である事は明らかであろう。
 このように、ひらめきや発想が必要なのはその段階の数学が未熟であるせいで、さらに学習を進めれば才能に関係なく努力さえすれば一定の問題に対処できるようになるのである。それは素晴らしい事であり、数学の一つの目的であり、そして教育の目的である。もちろんそこに至って学び、実行する機械的な手順という奴は、面白くも何ともない代物だろう。だが、その「面白くない」という部分にこそ珠玉の価値があるのである。
 このように、数学はそれ自体ある強烈な目的意識の下で作られた、特定の領域に対して有用で強力な方法論と知識の体系なのであるから、教師達がまずすべき事は、生徒達の奴隷のように生徒達に面白く感じられそうな題材を探してきては「どうですかね、これで勉強する気になってはくれないですかね~?」とぺこぺこする事なんかではなく、自分が理解している所の数学の持つ目的意識と問題意識、そして数学がどんな領域に対して有効で、その領域に対してどれほど強力で有用であるか(あるいはそうあろうとしているか)を正確に、的確に、伝えようとする事だ。こうして書いてみれば大した事ではない、最も基本的で当然の事なのであるが、それ故にこの事は軽視されがちなのである。もちろん、精神的に未熟な子供達を適切に導くのも教師の仕事であるから、そういった目的で生徒が面白く感じやすいネタ、興味を持ちやすい話題を効果的に使うのならばそれは批判されるようなものではない。しかしそれはあくまで二次的な物である事を必ず認識しなければならない(そしてほとんどの場合認識されていないだけでなくそれが教育の全てであるかのように思われている場合が多い)。
 ここまでの数学の話で、ひらめきや発想という物が出てきた。ひらめきや発想を重視するというのも目的を失った教育の迷走する一つの姿である。この事を物理学との関連で少し述べておこう。
 高校での物理学で扱う事のほとんどは、物理学の誰にでも扱えるよう整理された部分だけである。そこからはみ出す部分についてはごくごく初歩的な事しか扱わない。
 ところが多くの教師が、物理的直感とかイメージばかり(物理ではさすがにひらめきや発想は余り強調されない。しかしその役割は似たようなものだ)を強調して、物理学の各々の分野が、どういった現象を対象としていて、その領域にある現象を扱う上での一般的で、機械的な手順とはどのようになっているのか、明示的に教えてはくれない。
 問題の解き方を教えるという事に教師達が感じる謂れのない後ろめたさがこの状況に一役買っている。この、物理学の誰にでも扱える部分しか出てこないという事は、正しく理解していれば(試験や問題集の)問題が必ず解けるという事であるからだ。では、生徒に問題を解かし、点数を取らせて何ぼの予備校や塾はどうかというと、やはり物理的直感を持とう、イメージを持とうとばかり言う。
 こうした状況が生まれた一つの理由は、教える立場にある者が、まず学習者との上下関係を築こうとするからであろう。それにより精神的な満足感が得られるし、教える上でも色々と都合が良い。例えば質問を受けた場合、生徒は心底納得しなくても、教師が自信ありげに説明しているという事実によって、満足したりするだろう。また、予備校や塾にとって、受験、教育のエキスパートが秘奥義を伝授する、という形式の確立は何をおいても最優先事項なのだ。
 しかしながらもし真剣に物理学を教えようとするのならば、物理学が如何に強力で有用な、普遍性(いつでもどこでも成り立ち誰にでも使える)を持った方法論であるのか、あるいはそのような方法論となる事を目指しているという点について、正しく伝えるべきである事は明らかだ。まず何にもまして伝えるべきは、面白さでもなく、イメージや直感といった良く分からない物でもない、物理学のありのままの姿だ。
 そしてこうした素朴でしかし真摯な教育の結果として、生徒がその科目を面白いと感じたならば、こんどこそそれは、生徒を唆して勉強させるために人為的に演出された表面的な面白さではない、その分野に対する真実の面白さであると言う事ができるだろう。それは素晴らしい事で、今度こそ歓迎すべき物だ。
 実際、自然科学の各々の分野に携わる人々はその分野の目的意識、その分野の興味が向けられる所に共感してその分野に進んだ場合が多いだろう。それはつまりその分野を面白いと思ったという事だ。特に、自然科学は初めは貴族の娯楽であったから、そのような面白いという感情抜きには自然科学が芽生えることすらなかっただろう。
 そしてそのような面白さを感じる事のできなかった生徒も、大抵の場合教養として、あるいは他分野において実用的に活かすなど何らかの意味を見出す事ができるだろうし、(ちゃんと食らいついて学べば)その分野について正しく理解したと自信を持って宣言できるようになるだろう。それは、その生徒がその分野の目的意識に共感しようとしまいと、それ自体誇るべき事だ。その分野を面白く思えない生徒、学生にも、その分野を学ぶ資格はあるのだという事を決して忘れてはならない。
 ところで、大学の先生もしばしば「この講義で○○の面白さを伝えたい」というような事を言うが、これはここまでで批判したような意味での面白さではなく、最後に言及したその分野の真実の面白さを意味している事が多い。つまり、彼らが面白さを伝えるとは、その分野の興味がどこにあり、何を目的意識としているか正しく伝え、その問題意識を共有しようとする、という事なのである。このような学問に対して真摯な姿勢を持つ先生達の講義は、その分野の姿をありのままに伝えようとする実に誠実な物であり、それ故得る物は非常に大きいのである。ある時はその分野の目的意識に共感して確かにその分野を面白いと感じるし、そうでない時にも真剣に学べば分かった積もりに留まらない本当の理解に至る事ができる。
 表面的な面白さや分かり易さを重視する視点から、しばしば予備校の教師という物が教育技術のプロフェッショナルで、学校の教師は教える技術という点で劣るという人がいる。僕は予備校の授業という物を受けた事はないが、受験時代には予備校が出版している参考書のお世話にもなった。しかしその経験から言って、予備校での教育という物が(学習の目的を受験合格に絞ったとしても)それ程良いものとは思えないのだ。
 特に、先に書いたようにこうした塾産業の多くは、試験問題の解き方に対するエキスパートとしての立場に立脚している。だから、予備校講師の位置に到達したり、さらに超えてしまうといった事が原理的にできないような仕組みになっている。最近流行のカリスマ講師の存在などはその象徴だろう。
 しかしながら大学ではそうではない。誠実な姿勢を持った多くの先生達は、もちろん僕ら学生よりもはるかに多くの知識と、多くの分野に対する深い理解をもっているわけだが、その担当する講義において扱う事項に関する限り、学生が先生と同じ(あるいは超えた)レベルの理解に達する事ができるのが当然であると見なしている。何しろ学問の世界では、ある事を本当に理解し納得したという事は、人に説明して理解し納得してもらえるという事なのだ。予想される疑問点について納得いくまで(というか要は自分にとって疑問の余地がなくなるまで)検討した上で講義に臨むから、それらを全てきちんと説明すれば誰もが必ず完璧な理解に達するだろうと確信し、期待できるのである。
 もちろん物事はそれほど上手くはいかない。これはつまり、先生が全く手加減しないという事だからだ。だからむしろ、僕ら学生にとってこうした先生の講義についていく事は大変な困難を伴う。大抵の場合どこかでついていけなくなる。それでも、このように誠実な姿勢で行われる講義には、その分野の真実の姿を垣間見るのだ。
 僕は恐らくは恵まれているのだと思う。ここで書いたような誠実な姿勢を持った先生に、地元の市立の小学校、有名進学校である中学校、高校で常に何人かずつ出会っているからである。しかし大学に入って驚いたのは、周りから聞こえてくる否定的な声とは裏腹に、大学の教育の質が非常に高く、ここで書いたような誠実な姿勢の先生が数多くいた事だ。何だか最近、大学の講義はつまらない、役に立たない、とにかく駄目だ、という風潮があり、事もあろうに予備校を教育のエキスパートとして担ぎ出す風潮が強く、それに対して大学は萎縮して改革や改善を急いでいる。しかしながら僕には現在の大学の教育はそんなに悪くないと感じられるのだ。先にも書いたように現状維持という主張はとかく弱くなりがちであるし、実際消極的姿勢に基づく現状維持論というのはどうしようもない代物だが、大学はもっと自分達がやっている事に自信と誇りを持つべきだろう。今の大学には本当の意味での学問の面白さを学生に感じさせる環境が確かに存在しているのだ。
 僕は他大の授業という物は見たことはないが、お世話になる事の多いインターネット上の講義ノートや、他大の先生達のWEBサイトから、他大の状況もそれほど違わないと感じられる。
 確かに大学の先生達は教育のエキスパートではない。だが、学問のエキスパートだ。この事の意味はとかく否定的な意味で捉えられがちだけれども、実は非常に大きいのだと思うのだ。

..3.3.試験のための勉強は悪か
 ここまで素朴な本来の目的をこそ、学習の動機として掲げるべきであることを主張してきたが、その場合に重要な事はその分野の学習を認めないという選択肢を認める事だ。つまり、「数学を学ぶのは数学を知り、理解し、使えるようになるためだ」と胸を張って宣言するという事は、数学を知り、理解し、使えるようになる必要性を感じない者は数学を学ばなくて良い、と突き放す事でなければならない。
 先のも述べたように、先に歴史的経緯やしがらみに基づく結論があって、それを正当化するためにひねり出した後付けの正当化は、(それがある程度正しい場合でさえも)全く説得力を持つ事ができない。ある事を「する」理由を述べるならば、「しない」選択肢を、その存在だけは認めなければならない。
 現在の教育の下で生徒や学生達がなかなか学習の動機付けを見出せないでいるのは、現在の教育があらゆる場面で「欲しい物を与える教育」よりも「与えたい物を与える教育」に大きく傾斜しているためだ。
 ところがこういう事を言うとすぐに、そのように「勉強したいやつは勉強しろ、勉強したくないやつはしたくない」と突き放せば、多くの子供達は全く勉強せず、大人になってから後悔する事になるし、社会の基盤が弱くなってしまうから、ある程度強制的に学習させる事が必要だ、と反論される。
 全く個人的には、こうした考え方はそもそも大嫌いだ。確かに(特に年齢の低い)個人が下す判断はたいていの場合合理的とか賢明とかいうには程遠い。しかしだから他人が代わりに判断してやる、というのは、どっからどう見ても尤もらしい事項に関する場合でなければ、深刻な暴力である。そしてもし子供時代に勉強せず、大人になってから勉強しておけば良かったと思った場合、少なくとも僕は後悔する事ができる。しかし強大な社会的枠組みによって勉強を強制され大人になって子供時代の勉強に対して意味を見出せなかったとしても、できる事は何もない。しかしまあそれでも、そうした事が時に必要である事は間違ってはいないだろう。
 だが、そういった議論以前に、誰もが忘れてはいけない事がある。それは、僕らはこういった問題を解決するために長い間常に用いられてきたいくつかの手段を持っているという事だ。その代表例は「試験」である。
 すなわち、試験とは、リスクとメリットをコントロールする事で人々の行動に働きかける手法である。この手法は明らかに自由社会において、そして先の、学習しないという選択肢を許容して初めて学習するという事が明確な動機を持つという意味において、特定の行動を促す最も基本的な制度であり、人々の一つの主要な行動原理となり得るものである。
 例えば学校での中間、期末試験は、まず赤点をとれば留年の危機に見舞われるという点で、最低限の要求ラインを示している。そしてそれ以上の成績をとる事はその期間にその科目で扱った内容をどの程度まで習得できたのかの証明となり、いくつかの場面でその生徒にとって有利に働くようになる。そして生徒達はそのリスクとメリットの下で、それぞれに判断して、努力して勉強して良い成績を取ったり、進級が危なくならないよう気を付けながら部活に精を出したり、全く学校とは関係ない何かに注力したり、それらのある部分とある部分を両立させようと試みたりできる。
 このように、試験とはリスクとメリットを提示して個人の主体性を侵すことなくある立場から(社会にとって、学校にとって、あるいは個人自体にとって)好ましいと思われる行動を促す一つの基本的方法である。それにも関わらずこの仕組みは否定的に捉えられる事が多い。
 特に、試験のための勉強という物はほとんど絶対的な悪として捉えられている。しかしそれは全くの考え違いである。試験は、学校の定期試験ならばその期間に扱った内容をどこまで理解し、身につけて欲しいか、教育者側の要求を示す物であるからだ。また入学試験の場合にはそれは学校が学生に何を要求しているのか端的に表明する物であるからだ。
 もしある試験に評価方法として問題があれば、直接的に問題が生じるのはその評価方法を利用する側である。つまり、学校ならばその学校の教育理念が生徒達に正しく反映されず、その生徒達は最終的にはその学校の卒業者という社会的立場を持って社会に送り出される事になる。また、入学試験ならばその学校の考えに照らしてより入学を許されるに値する人間が不合格となり、そうでない人間が合格するという事態が起こり得る。
 ある人間が、ある学校にどうしても入学したいと思った場合、その学校が試験でどんな点を重視するのかという点について彼が完全には賛同できないとしても(当然、そんな事ができる事は滅多にないだろう)、その試験の傾向を調べてできる限りの努力と対策を行い、自分がその学校の学生たるに値する事をアピールしようとするだろう。その行為自体は批判されるような物ではない。もちろん、試験が十分に考えて作られていないために、試験のための勉強では試験で合格するという以外に得る物がほとんどないからもっとこのような勉強をした方が良い、と相手のためを思って忠告するという事はあり得るが、それは一定のリスクを受け入れる事も同時に勧めているのだという事を忠告者は認識していなければいけない。往々にしてこの事が認識されていないだけでなく、相手のためを思っての親切な忠告の形をとりながら実質的にはその人間自体の批判となっている場合も少なくない。
 それだけではなくこのような試験という方法は、確かに理想的である場合は少ないものの、たいていの場合それなりに上手く機能している。
 例えば僕が大学の受験勉強をしていた時、特に理系分野の学習についてほとんどの場合の基本的な指針は、とにかく全てを正しく理解する、という事だった。僕は理系分野に人よりは興味を持っている方であったが、受験勉強ともなればそのような興味は二の次で、受験で合格する事だけを目指した。それにも関わらず、受験勉強と言って一般的にイメージされるような、定理や法則、計算法をその意味や意義を度外視して丸暗記し難関大の入試でしか出てこないたくさんの特殊な問題をパターン化して何度も練習し、特別な受験テクニックをできる限り身につける、そういった方法をとらなかったのは、単にとにかく正しく理解しようと努力する事こそが当面の唯一の道であると考えたからだ。例え模試の答案で自分の書いた答えに丸がついて帰ってきたとしても、自分の理解の下で確信して書いた答えでなければ、一体どうして実際の受験で合格に足りる点数を獲得する事ができると期待できるだろうか。今日の問題には正解を書く事ができた。では、明日は。入試当日は。最終的に予備校の模試で合否が判断されるのならば、予備校の模試に次第に適応していく事で合格を期待する事もできよう。だが、入学試験の採点をするのは全く異なる大学の先生達で、その採点結果は一度たりとも公表された事はないのだ。唯一頼れるのは模試の成績と合否の相関関係を示す統計データだけだが、模試の成績は合格圏だったのにも関わらず不合格だった人間と順当に合格した人間にどんな違いがあるのか、統計データは何も教えてはくれない。
 結局、各々の科目をできる限り理解しようとする事が、単に点数をとるだけの目的の下で考えても、唯一最良の方法だった。特に物理学はそういう面が強く基本法則をきちんと理解する事が受験勉強のほとんど全てであったと言っても過言ではない。数学では難しい問題ともなればいくらかの技術的に難しい計算や議論が必要になる場合もあった。しかし、特に問題集では紙面の節約のために解答をできる限り短くしているという事もあって、良く考えて見ればそうした自分で思いつけるとは思えない計算テクニックにはいくらか時間が余計にかかるが自分の背景に照らして十分自然で素朴な迂回路が存在する事を見出したり、思いもよらないひらめきによってしか出てこないように見える議論に十分に正当な背景が存在している事に気づいたり、またその解答には正しいという以上の価値はないと結論して改めて冷静になって考えて見ればもっと自然な解答にたどり着くという事がほとんどだった。このように解法自体に検討を加え、自分は当然そう考えるべきだったのだというレベルにまで理解を持っていったり、あるいはそのように言えるように自分の持つ数学に関するバックグラウンドを豊かにしていくという行為によって、僕は今日の問題でなく、明日の問題も、さらには入試本番の問題も、解く事ができるという期待を抱くことができ、その幾ばくかは自信となった。
 考えて見れば、数学や物理学は、一般性と普遍性を目指していて、誰にでも使えるという事を一つの目標としているのだ。だから試験のためであろうともっと直接的な興味によろうと、とりあえずすべき事はそれを正しく理解しようと努める事であるのは当然だ。その問題意識、目的意識は勿論「試験でこれこれこういう問題が出るから」という物ではない。だから、試験問題の出来が悪ければ何らかのずれは生じ得るだろうが、それはそれほど大きくはないと大抵の場合は期待できるし、そもそも対策のしようがない。そうした理解と自信を育んだ後に、これらの分野自体に対する興味ではなく試験のための対策をしているのならば過去問等で時間配分や解答用紙の使い方をチェックする事になる。しかしそれはあくまで基本的な理解という前提の上で行う副次的な試験対策であってメインではない。
 実際、偏差値順では最高に位置する東京大学の入試問題は、基本を理解していれば得点できる良問と評価される事が多い。それで誰もが高得点をとって乱戦気味となるかと言えばそうではなく合否ラインは他大と同程度の、おおよそ満点の6割であると言われている。特に現役生では、東大の受験生といえども、受験本番までに完璧に準備を終える事が難しく、単にきちんと理解するという一番の基本を完遂できずに受験に臨むという事も多いのだ。僕自身、化学と漢文と古典は結局間に合わす事ができなかった。受験問題においてだけ有効な受験テクニックなどという代物は、世の中には要領の良い人たちが楽をして合格しているのだろうな、という妄想が生んだ幻想にすぎない。
 学問に王道なしとは昔から良く引用される言葉である。学問は大抵の場合最も合理的な形で存在する。だから、試験のためであろうと他のどんな目的のためであろうと、その学問を学ぼうと思ったら当面すべきことは、単に真摯にそれを理解しようとすることだ。もちろんその先は違ってくるだろうが。この当たり前の事はしかしなかなか認識されていない。
 また注目すべき事に、僕にとって一般的に流布しているような受験勉強像が最も良く当てはまるのは、実はセンター試験対策の勉強であった。受験でしか意味のない高度な受験テクニックを要求する難問奇問に受験生が苦しめられる状況を是正する事を目的に、大学入学を志す者に対する標準的で理想的な学力評価の基準たろうとして作られたはずのセンター試験のために、僕はセンター試験のためだけの特別な訓練を一定期間行わなければならなかった。
 国語では、選択肢の全体的な主張のどれが正当であるか判断する問題ではなく、選択肢のごく一部に明確に誤った記述が埋め込まれていないかどうか判定する事を求められているのだと気づくまで、解答がランダムに決まっているとしか思えず、たくさんの時間を浪費した。そう気づいた後もこの特殊な問題に慣れるのに時間がかかった。数学では初め、単に解けない、分からないという事態に遭遇した。二次試験の問題ならば、単に高校範囲の内容をきちんと学習しただけでも、完璧な答案は臨むべくもないものの多くの場合とりあえず何もできないという事はない。しかしセンター試験ではセンター試験でしかお目にかからない特殊な問題を、特殊な方針の下で解かせられる。何しろ穴埋め、選択問題だから問題作成者の提示した解き方に従わざるを得ない。しかしそれは自分にとって思いもやらない(否定的な意味だ)方法である事がほとんどで、問題の作成者がどのような解き方を要求しているのか判断できるようになるまで何度か過去問を解く必要があった。また特に計算に関して、センター試験としては予想外に面倒な計算が要求される事もあり、しかもそうした問題には問題設定の背景という物が余りなく、人為的に複雑な問題設定にしたために計算が難しくなるという、まさに試験のためだけの問題としか呼べないものがしばしばあった。それにも関わらず問題が一見何らかの意味ありげに作られている事も多く、そのような問題でも結局は力押しの計算が要求されているのだと気付く必要があった。そしてそういった事に気付いてなお、そのような計算を、シビアな時間設定の中で間違いなく完遂できるようになるまでには相当の練習と訓練が必要だった。英語や理科、社会などではかなり表面的な事項しか聞かれないのが気になった物の、問題自体はそれほど特殊には感じなかった。しかし、これらの科目でも時間設定は異常なほどシビアであり、やはり何度も練習と訓練が必要だった。
 こういった事についてセンター試験を批判するという事はできる。そうした声は頻繁に聞く。僕がセンター試験のためにこれほどまでに特殊な練習と訓練をする必要があったのは、東大というセンター試験の点数を多く必要とする大学を受験しようとしたためでもあったのだろう。つまり標準的な学力判定手段であるセンター試験は受験者の点数分布を綺麗に上から下までばらけさせる必要がある。だから、標準的な勉強をしてきた人は想定されている平均点程度しか取れず、それ以上の点数をとりたければそれ相応な勉強をしなければいけないようになっている。しかし試験が、要求を十分に満たしている者に対して満点を与えるという形になっていない、大体これくらいの事ができて欲しいというメッセージとして作られていない、というのは腹立たしい話だ。
 しかし同時に、他ならないセンター試験がこのようになっているという事実を、僕らはもう少し冷静に受け止めるべきだろう。考えて見ればこれだけ多くの人間に対して、ある(学力という)側面に応じて点数をつけるできる限り公正な判断基準を作ろうとすれば、このように平等な条件(試験の形式=ルールは誰にも分かっている)の下での努力を評価するような仕組みにならざるを得ないのだ。少しくらい出題される問題に特殊な傾向があるとしても、そうした事は往々にしてある物で、その問題をちゃんと解けるよう時間をかけて努力すればそれが報われるというのは、確かに公正である。(しかしそれでもセンター試験の問題は、多くの問題をはらんでいて、もう少しどうにかして欲しいとは思う。センター試験の対策に費やした時間は、僕の今までの人生の中でも最も無駄に費やされた時間であると感じる。)
 こうして見ると良く耳にする「試験では本当の能力を測ることはできない。もっと独創的な発想とかひらめきを評価するようにすべきだ」という類の意見が、余りにも非現実的である事がわかるだろう。もちろんそうした独創的な発想とかひらめきを持つ人間を不用意に埋もれさせてしまう事態は好ましくない。試験の性格によってはそうした発想やひらめきを問う問題も設けて(単に通常の方法で評価に応じて加点したり、あるいは特に目覚しい解答をした人間を無条件で合格させるなど使い方はいろいろだ)そうした人材を発掘したりすべきだろう。しかし、それが全てになってしまえば、試験はもはや(ギャンブル的に特別な人材を見出そうとする場合を除いて)公正な判断基準としての役割を失ってしまうし、そもそもほとんどの人間にとって、独創的な発想とかひらめきなどおいそれとできる物ではなく、全くもって困ってしまうだろう(少なくとも僕は困る)。
 試験は確かに万能には程遠い。しかし多くの面で他のどんな方法よりも優れている、といよりもほとんどの場合他の方法など存在しないのだ。その重みを見て見ぬ振りをし、単なる反発から批判するという事はとうてい正当化されない。

..3.4.多様性を認めるという事。
 このように試験という物は、確かに万能というには程遠い物の応用範囲の広い手法である。試験に限らずリスクとメリットを設定する事により行動に働きかけるという事は、人の自主性を侵害せず、その多様性を認め、それと同時にある思想や主義、考え方の実現を図れる優れた方法である。従って、何らかの考えに従って人に特定の種類の行動の選択を促そうとする場合、まず第一にこの方法によるべきだ。何らかの思想、理由、動機を語りながらも選択の自由がほとんど存在していない状況は、人に説得力のある行動の動機を与える事はなく、ただ特定の価値感を受け入れるという事を要求するという暴力的な事態だ。
 もちろん、試験は万能ではない。特に試験を初めとした社会的(あるいはもう少し小さい領域で)にリスクとメリットを設定する仕組みが、ゲームのルールのように全く形式的に扱われる事態は問題となるだろう。学校の定期試験にせよ入学試験にせよ要求したい事の全てについて確実に判定するという事は不可能だ。だから、他の場面での活動、行動について何らかの期待をし、その前提の下で限定的な判定能力しか持たない試験を実施するという事は確かにあり得る。こうした場合に、徹底して試験のための対策を行って得点だけをかっさらっていくという行為は問題視されてしかるべきだろう。
 しかし、公的な立場にある人、制度や組織、そして社会が人の行動に働きかけ何らかの要求をする場合、それはまず第一にはリスクとメリットの設定によってなされなければいけないという事を忘れてはいけない。それなしに、あるいはそれを軽視して動機、理由、目的といった物を語る事を前面に押し出せば、それは特定の価値観を受け入れる事を強要するという事になる。それは深刻な人の内面の、自由の侵害である。また先の述べたようにこのような状況では結局動機、理由、目的として何を語ったとしても説得力を著しく欠く事になる。
 さらに、想定していない動機、理由、目的によってその行動を選択する人間がいる可能性を忘れてはいけない。前に、面白さを感じない生徒にも、例えば物理学を、学ぶ資格があると書いた。特に面白く感じていなくとも、他の科目に比べれば得意であるからといった理由によって、物理学を選択し、他の分野よりも自分に向いているという理由から物理学の研究職にまで進む人がいるかもしれない。面白いという動機が他の行動原理よりも立派であると見なす空気がほとんど社会的に形成されていて、それ以外の理由で学習を行う者は、多くの人にとって学校で学ぶ事を要求される膨大な事項の中で実際に興味を持てるのはそのほんの一部(全くないという人も多いだろう)であるにも関わらず、謂れのない強い後ろめたさを感じなければならない。この固定観念による抑圧は余りにも暴力的だ。それだけではなく、国家レベルで理科離れという現象が問題視され、理系分野のエキスパートの育成が重視されるのは、新しい娯楽を推奨して国民の精神生活を豊かな物にするためなどではなく、社会の発展にとって重要であるためであるはずだ。そうであるならば、理系分野の学習を行う者を支援する制度を作ったり、教育やメディアを通して理系分野の研究や技術がどのように役立っているのか示す(何度も書いているように、教育においてその分野を学ぶ動機を提示する場合、その分野の教育がどうして行われているのかを率直に伝えるべきなのだ)という事をするべきだ。それにも関わらず、面白さばかりを強調し、実生活で役立つといった文句で(教育の内容を恣意的に歪めてまで)この分野の学習の動機付けをしようとするのは、相手に受け入れられやすい謳い文句で半ば”騙して”勧誘しているようでもあり、また、安い給料でも喜んで働く都合の良い研究者を作り出そうとしているようでもあり、冷静に考えて見れば随分と不気味である(そういった事を意識しての事ではないのだろうが)。
 それにも関わらず、試験はむしろ多様性を否定する物として批判される事が多い。しかしそのように考える事こそが多様性を否定するという事だ。その試験では人の限られた側面しか評価できないと主張するという事は、特定の場面、特定の目的のために実施される試験に、人の全てを判断する基準としての途方もない役割を要求するという事だから。
 それにも関わらず教育制度は、リスクとメリットを設定するというまず第一にすべき事を忌避し、固定観念を押し付け、過大な要求を生徒に科す場としての性格を持つようになってしまった。現在の教育現場において試験ができる事が人の全てではないと言われる事は、試験の出来、不出来に関わらず人を受け入れる、という事ではない。試験もそこそこでき、それに加えて他の点でも優れた人間であれ、という事だ。
 現在の学校教育はだから、いろいろな立場にある人のそれぞれの持論がその力関係に応じて実現を図られる場と科している。教育の「改革」はいつも特定の持論を実現する事に主眼をおくから、それは常に従来の教育に対して付加的に行われ、生徒達がある事を行ったという事実と歴史を作り出す事に重きが置かれる。生徒の主体性は容易に無視され、教育は「与えたい物を与える教育」としての性格に極端に傾いてしまっているのだ。そうして教育は生徒を置き去りにしてどんどん肥大化し、勝手に非現実的な理想的な人間像を形成していった。教育に関する問題提起はいろいろに行われるが、そこで行われる議論では、その度毎にここぞとばかりにそれぞれの立場からそれぞれの持論が、その問題提起に沿った作文と共に提出されるという事が繰り返されてきたのだ。教育内容の削減が問題視されたゆとり教育が、教育の現場の負担を増大させるという問題をも持っていた事は忘れてはならない。ここでも問題の根は深く、ゆとり教育だけを見ていてはならない。
 例えば公立の高校では長い間受験指導にそれほど力を注いでこなかった。しかしゆとり教育が批判を浴びた結果、例えば東京都では都立の高校で生徒の学力を向上させる積極的な取り組みを始め、受験指導を丁寧に行って、大学合格者数の実績作りを目指すようになった。しかしながら明らかに根本的な問題は、このように全員まとめて学校主導という形でしか受験勉強という物を受け入れられない学校の傲慢さにある。大幅な方針転換に翻弄される生徒はたまったものではない。
 そうやって学校教育は生徒達に過剰で身勝手な要求をつきつけ、リスクとメリットにより行動をコントロールするという第一にすべきことを忘れて特定の価値観を押し付けてきた。そしてなお悪い事に、教師達は試験のための勉強という物を徹底的に問題視し、時としてその余りに授業内容からその分野にとって十分正当で重要である部分が抜け落ちたりあまりちゃんと教えられないという事すらあるにも関わらず、中間試験や期末試験の時期になれば、彼らは容赦なくそしらぬ顔で試験を行うのだ。家庭科や保健体育といった科目についてすらも。そして、これだけ受験勉強や入試という物が問題視される社会的風潮が広まっているにも関わらず、入学試験は厳然として存在するのだ。
 そうして生徒や学生は、教育を、要求を適当にこなして耐え忍ぶ苦行か何かであるように捉えるようになってしまった。生徒達の学習における積極性、主体性のなさを「現代の若者気質」に還元する議論がよくなされるが、そうした気質の形成に果たした教育の寄与は無視できない。
 僕は大体これまで、大まかに言って「真面目」な方の人間で、中学にしろ高校にしろそれなりに勉強を行ってきた方だ。しかし周りの比較的「不真面目」な態度の人間が勉強という行為に対して示す意外な程の「真面目」な考え方にしばしば驚く。例えば以前大学で英語の教材の訳文を掲載しているWEBサイトが問題になり、そのWEBサイトが警告を受けて訳文の掲載を中止した事がある。僕は情報を与えないという事が学習において正の効果を持つとは思えないのであるが、多くの知人は(WEBサイト上の訳文をためらいなく利用してきた人達でさえ)これを仕方のない事と捉えていた。まあこの件については僕の考え方は極端な方であるとは思う。しかし、さらに驚いたのは、クラスで管理者を決めて運営していたクラスのWEBサイトに掲載してあった過去問やシケプリを管理者が削除し、ほとんどのクラスメイトがそれを当然と見なしていた事だ。特にシケプリ(試験プリントを略して伝統的にこう呼ばれている)は、著作権は明白に作成者にあり、学生同士で得意分野を活かして互いの学習の手助けをし、より良い理解に繋げようとする批判の余地のない仕組みであるし、過去問もまた効果的に使用すれば必ず学習の一助となるだろう。尤もこれは幾分持ち上げすぎで、シケプリは実際には「これとこれとこれだけを覚えていけば多分どうにかなるよ」という、理解していない学生が理解していない学生に安心を与えるという性格の物が多いし、過去問も一夜漬けの際に「これさえやっておけば」的に使用される場合がほとんどだろう。しかしそれでも、こうした学生の手によるプリント類がそれほど後ろめたさを覚えるべきものには思えない(だいたい、学生が自分達の手で授業内容に関するプリントを作るなんて素晴らしい事ではないか)。それにも関わらず、そしてさらに学生達は誰もが「毎日授業に出席して講義を聞いて板書をノートに写すなんて何の意味もない」と考えているにも関わらず、同時に「毎日授業に出席して講義を聴いて板書をノートに写す」事を真面目な学習の態度だと考えていて、それ以外の方法による学習を「ズル」と見なしている。こうした傾向はこうして書いて見るとずいぶんとおかしなことに見えるが、そこかしこで見られる。
 こうした、誰も本当は正しいとは思っていない固定観念を何となく受容して、しかしもちろんそれに従って行動しはしないという状況の一つの理由は、それが都合が良いからだろう。そういう容易に批判可能な「正しい事になっている社会通念」の存在は、誰をもいっぱしの論者にしてくれて、大体標準的な範囲の日常を送ってくれる人間に対し、実際の行動を省みることなくその正当化をしてくれるからだ。
 大学に入ると大抵、「大学では全ての授業に出席しなくても誰も文句を言いません。それぞれの責任の下での判断に行動が委ねられている自由があるのです」というような事を言われる。しかし学費を稼ぐためのバイトが忙しく、ぎりぎりの所で学業と両立しているといった一部の人を除けば、授業をさぼって「自分の責任と判断の下で出席しなかったのだ」と胸を張って言い切れる学生はいないだろう。別にどんなに下らない理由であろうと、あるいは単に学校に行く気がしなかったという理由であろうとも、そう言い切ってしまって良いのだ。それが自由というものだ。しかし実際には「授業に出るのが真面目な行動である」という固定観念はほとんどの学生が受け入れていて、しかし「不真面目である標準的な学生」はそれに従いはしないという事を以って、心の安定を図っているのだ。
 学歴社会という状況もそうして生まれたのだろう。
 人口多くの割合が大学にまで進学するようになるにつれ、彼らが学歴を得るためだけに大学に入学し、大学に入ってから勉強せずに遊んでいる、またそのために学歴が能力の優劣に結びつかない、また大学(や高校までの教育)での勉強が社会に出て大して役に立たないにも関わらず就職がほとんど学歴で決まるのはおかしい、と問題視されるようになった。
 しかしこの問題を解決するために、大学ではその大学の学位を取得した人間としてどのような人間を社会に送り出すのかその大学の社会における役割を見極め(あるいは自ら設定し)、それに相応しいと認定した人間だけに学位を与え卒業させるとか、また入学する事が難しい大学に進む以外の道を選択した人々がそうした大学の守備範囲内の高度な専門性を持った職につきにくいという以外の不合理な不利益を被る事がないようにし、あるいはそうした他の選択肢も適切に支援する仕組みを整えるといったリスクとメリットのコントロールによる抜本的な解決は図られなかった。
 そうした事が行われなかったのは、学歴社会が上手く行っている間は、結局は誰にとっても都合が良かったからだ。学生にとっては、一度大学に入ってしまえばその大学に応じて大して苦労もせず就職先が見つかる。大学にとっては、たくさんの学生が来て学費さえ払ってくれれば文句はない。そして企業にとっても、新入社員を安定して確保できる。仕事に特別な能力は要らない。誰にでもできるから、採用するのは誰でも良い。しかし給料の高い企業は人気があるから、別に誰でもいいけれど、どうせ高い給料を払うならと「良い」大学卒を優先する。そうして住み分けができた。高学歴ほど良い企業へ。給料に上下はある。しかし、大体の所誰もが満足できる給料を貰う。そう、日本経済の調子が良かった時代はそれで問題はなかったのだ。
 だから誰も本当に状況を修正しようとはしなかった。受験問題を作成する当人達が、合格し、入学してきた学生達に「受験勉強には何の意味もない」と言い、何のポリシーもなく学歴や慣例の研究室からの推薦で採用を決める事を繰り返しながら新入社員には「学歴は、君達が大学で学んだ事には何の意味もない」と語る、そういった目の前の人間との精神的な上下関係を設定するためだけの言説が溢れ、いつしか社会的な合意を受けた共通の認識であるかのように振舞っていた。そして状況はなかなか修正されなかった。不況が長引いて従来の就職システムに綻びが見え始め、日本の競争力が経済的にも技術的にもいつのまにか低くなってしまった事が明らかになりだすまでは。
 今や教育は、少なくとも実用上の問題から、すなわち人的資源の質を向上させ、日本の競争力を引き上げるために、ただ時間を費やし生徒達は耐え忍ぶだけの強大で整合性も合理性もない固定観念の場としての性質を見直し、もっと実質的な成果を上げる場に変容する必要性が生じている。
 さらに、確かにこれまでの教育の持つ歪みという物が、多くの人にとってそれが都合が良いという事実に支えられてきたのは確かである物の、僕にはやはり人のあらゆる部分に関わろうとし、無頓着に人の内面に踏み込んで固定観念を押し付けるその傲慢さが我慢できないのである。この点に賛同してくれる人は少なからずいるのではないだろうか。自由とは気高い心を持つという事だ。そして現在の教育は人々から気高くあろうとする意思を殺ぐ空間として機能してしまっている。
 こうした問題を解決するために、教育は今一度その目的を見直し、素朴な目的―手段構造を取り戻さなければならない。肥大化した教育は、その規模を一度縮小して本当に誰にとっても必要な最低限の部分だけを必須とし、学校での拘束時間を見直す。その上で魅力的な様々な付加的なプログラムを提供する。試験を初めとするリスクとメリットの設定を恐れずに、それが社会的な要請に適合するよう常に慎重に検討する。その上で各々の領域、分野、特定の事項の背景にある目的意識、問題意識が真摯な言葉で語られ、その内容を誠実に伝える教育が行われれば、それは今度こそ多くの人に伝わり共感されるだろうし、そうでない人も何らかの得る物があるだろうし、それがなければ、単に一定のリスクの下でその教育を受けなければ良い。その時間を他のメリットの取得にまわす事ができるだろう。さらにこうした教育が効果的に行われれば、企業にとって人が受けた教育を活かせない仕事をさせるというのは単なる愚かな行為となり、またその人自身そんな事は望まないだろう。
 そして、僕らは気高い心を、本当の自由を、取り戻す事ができるだろう。
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コメント
この記事へのコメント
2005/05/21(土) 23:39:13 |でろでろ|URL | #vXeIqmFk[ 編集]
ごめん読む元気ない(顔
2005/05/22(日) 01:09:12 |Ruke|URL | #.85f1Vro[ 編集]
そんな君に、本文章が読み易く編集されて掲載されている静寂第十一号!200円で五月祭にて販売するぜい。
2005/05/22(日) 12:58:38 |でろでろ|URL | #vXeIqmFk[ 編集]
ちなみに日本は昔から学歴社会じゃなくて学校歴社会らしいですよ。同じ大学卒とかでかたまって馴れ合ってるだけなのね。

200円のパイン券と引き換えでよければ買ってあげよう。
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