RukeとLuNaYuの日記
I know the truth.
I know whole.
And I...know you.
平凡な大学生活の日記です。時折まじめな長文を書く病気になります。興味がなければ読み飛ばしてください。
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一つ目として挙げた先に夢―自然科学が、人間が生み出し、議論してきた思想、主義、主張に関してまで決着をつける能力を持っている夢―を見たのは、また積極的に自然科学の不思議に見える部分、奇妙に見える部分を強調し宣伝してきたのは自然科学の側であるという事、について。

先に夢を見たのは自然科学の側である、とは主に量子力学を想定しています。言うまでもなく、量子力学に至って自然科学は遂に、人が見ていない時に月は存在しているのか否かという、世界を観察する事によっては決着をつけられようはずもない、そもそも存在という概念をどう捉えるのかという点に核心がある問題に、答えを与えるに至ったという幻想を抱いたのは、量子力学の建設に携わった著名な物理学者達自身でした

また、``公理主義''の哲学上、あるいは思想上の議論への表面的な形式だけを踏襲した応用、特にある種の稚拙な「神の存在証明」を、またそのような「証明」が「公理」だけでなくその証明の論理性すらも延々と議論され続ける様子を、自然科学に関わる人間はしばしば嘲笑します。しかしながら、物理学自体、ニュートンがプリンキピアを言論の形式を踏襲して著して以来今日まで、いくつかの公理からの演繹によって法則を導いていくという形式がほとんど強迫観念であるかのように重視され、数多くの教科書、解説書がこのような形式を粗雑に、無造作に、無分別に、踏襲して書かれてきました。実際の物理学の研究において、ある法則から別の法則を演繹的に導くという事はせいぜい一側面にすぎないにも関わらず。そしてまた、そのような教科書、解説書は、わずかな(#参照)``公理''による広範な結果の導出を演出しようとする余り、決して初めに列挙された``公理''だけからは導かれない結果を、曖昧な議論によって導くという事が頻繁に行なわれてきたのです。

#余談であるが、全く以って何故だか不思議な事に、このような公理として挙げられる一連の主張は、多くの場合「三つ」であり、そうでない場合のほとんどにおいては、「五つ」である。これは「奇数の呪術」その物であろう。つまり単に据わりが良いというだけでこの数は選択される。普通古典力学の第三法則に挙げられる「作用・反作用の法則」、あるいは熱力学の第三法則「絶対零度に到達する事はできない」の他の法則からの浮きっぷりは、「非核三原則」の「持ち込ませない」を想起させる。*これは全くの余談である。

さらに「公理主義」を説明する上で大抵の場合一番初めにユークリッド幾何学が例として取り上げられるでしょうが、この公理主義の本家本元と言って良いだろう数学でさえも、公理からの演繹という形式によって物事についての厳密で明晰な議論が可能になるのだという無邪気な姿勢を長い間とり続けました。ある命題が証明されたという事が具体的に何を意味し何を意味しないのかについて詳細な検討が加えられるようになったのは実に20世紀初頭の事です。

そして、積極的に自然科学の不思議に見える部分、奇妙に見える部分を強調し宣伝してきたのは自然科学の側であるという事について言えば、言うまでもなく、相対性理論、量子論が奇妙であり、不思議な結果を予言するという点は専門家達自身によって度々強調されてきたのです。

確かに、これらの理論の創成期には、こうした混乱がありました。しかしながら、それは速やかに解消され、これらの理論が世界を確かに記述しているかどうかは綿密に検証しなければならないにせよ、机上の空論の段階で何らかのおかしな問題を含んでいるような代物ではない、という理解が今では(というよりだいぶ以前には既に)得られています。

そして、それにも関わらず未だに、世間には量子論や相対性理論の奇妙で不思議な点を強調し、その神秘性を演出する姿勢が根強く残っています。それは、受けがよいために大衆メディアによって広く行なわれてきたという面もありますが、この社会的傾向に関する専門家達の果たしている役割は、決して小さい物ではありません。

このように、学問に携わり、真実を追究しようとしている(つもりになっている)人間も、自分が必ずしも専門的な知識を持っていない分野に過剰な夢を見たり(量子力学がある種の哲学的命題に答えを与えると期待するという事は、逆に、哲学的な考察が量子力学的現象の理解を与えてくれるかもしれないと期待するという事でもあります)、自分が携わっている分野の可能性を過大評価したりしてしまいがちです。また、自分の携わる学問分野やその方法論の正当性を主張しながらも、その正当性の主張に真剣に疑問の余地のなくなるまで検討を加えるという事はなかなか行なわれないものです。

ところで、私は初めに「先に夢―自然科学が、人間が生み出し、議論してきた思想、主義、主張に関してまで決着をつける能力を持っている夢―を見たのは自然科学である」と書き、そして量子力学が特定の思想を支持すると初めに考えたのは物理学者達自身である、と書きましたが、もっと遡れば、例えばダーウィンの進化論が優生主義者によって不当に歪められた形でその正当化として流用された事を初めとして似たような事例は山ほどあり、どちらが先と言えるような物ではないでしょう。そしてまた、もちろん、この問題は、先の方が悪いというような単純な話ではありません。しかしながら、少なくとも、自然科学に深く関わる人間は、ここまでに述べたような事を、自省を込めて「先に夢―自然科学が、人間が生み出し、議論してきた思想、主義、主張に関してまで決着をつける能力を持っている夢―を見たのは自然科学である」と標語的に認識するべきでしょう。同じ事が「積極的に自然科学の不思議に見える部分、奇妙に見える部分を強調し宣伝してきたのは自然科学の側である」という事についても言えるでしょう。
サイエンスウォーズ (2005/07/25(月) 02:41:52)
http://ruke.blog5.fc2.com/blog-entry-120.htmlの続き

真実への熱望という学問の基本姿勢を持っていない人間の最大の問題点は、自分の行なう議論のある(重要な)部分について、それが正しいと自分自身すら確信していないという事、さらにはその部分が正しいのかどうかに興味がないということです。もちろんこのような主張に全く意味がないというわけではありません。どんな主張も(チンパンジーが無作為にタイプライタで打ち出した文章でも)、それが生み出されるに至った動機、姿勢、方法に関わらずそれ自体独立に意味を持つと考える事ができます。真実に至ろうとする強い目的意識という背景を持たない主張の中に考慮に値する主張が含まれていないと考える理由はありません。しかしこのような姿勢に基づく主張は有害なのです。学問という営みの進歩に貢献しないという点において。

こうした姿勢の人間は、明確な目的意識の下で自然科学に接するのではないために、自然科学のある主張に関する``一般的に噛み砕いた''説明に触れて「不思議だ、奇妙だ」と思った時にのみ興味を抱きます。ちょっと知性派ぶるための会話のネタを仕入れるためには、この程度の接し方で十分でしょう。しかしこの人間が、真実に至ろうと努力する姿勢を持たず、それでいて真実の探求者であるかのように振舞っている場合、大抵の場合以下の二つの行動をとります。一つは、その主張をごくごく当たり前の主張へと矮小化した上で、ごくごく当たり前の説明を与える事です。しかしこれによって損をするのはせいぜいその人間自身でしょう。問題になるもう一つの行動は、その主張がある特殊な思想を反映していると考え、さらに世界がその思想を支持しているとまで考える事です。そして最悪なのは、今基本的には無害であるとした前者の行動が後者と結びついた場合です。すなわち、一方ではその主張をごくごく当たり前の主張にすりかえて説明を与え、それでいてその事には無頓着に、その主張によって何らかの特別な思想や議論を正当化するのです。

この場合、この論者が自然科学のある主張を正しく理解していない事は大して問題になりません。きちんと学んで専門家になった物以外は自然科学に関わるな、というのは、他ならぬ自然科学自身の目指す普遍性の一つの側面―誰にでも使える―に反する主張です。問題なのは、この論者が、自分が流用した自然科学の主張が、何を意味していて何を意味していないのか、明確に、正確に(少なくとも自然科学を学ぶ学生が払う程度の努力によって)理解しようとする姿勢を持っていない事です。そのような追求は、彼自身の議論の質を高めるためにも確実に有益なはずにも関わらず、です。そうして進歩への道が一つ閉ざされるのです。

このような人間は、真実へ至ろうとする強烈な目的意識を行動原理として持ってはいません。その代わりにあるのは、多くの場合、現代社会において個人の行動原理として中心的な地位を占める、アイデンティティの確立です。そしてこの事が、真実の追究という学問の営みを、アイデンティティの対立へとすりかえてしまうのです。

#アイデンティティの確立という行動原理自体を、この文章によって批判しているわけではありません。

こうして、このような人々が自然科学を正しく理解していないと批判されると、異なる立場・陣営に属し、異なるアイデンティティを持つ人々からの、自分のアイデンティティに対する``攻撃''であると捉え、``反撃''する事になります。

#件の知人は、http://d.hatena.ne.jp/fer-mat/20050413/p18についても何を一番問題にしているかというと批判力を持っていないことですとコメントしているが、全く同じ事は過去に、ソーシャル・テキスト事件において非常に大規模に起こり、その後もそこここで起きている。

ところで、ここまで私は、真実に至ろうという強い目的意識を持たない姿勢こそが問題であると強調してきました。従って、問題は自然科学(用語)の不適切な流用を行なう思想家、社会学者、哲学者等の自然科学以外の学問分野に携わる人々に留まりません。私達は次の三つの事実を忘れてはなりません。一つ目は、先に夢―自然科学が、人間が生み出し、議論してきた思想、主義、主張に関してまで決着をつける能力を持っている夢―を見たのは、また積極的に自然科学の不思議に見える部分、奇妙に見える部分を強調し宣伝してきたのは自然科学の側であるという事です。そして二つ目は、実際に自然科学の専門家や何らかの形でこの分野に携わる人間によって、単に自分のアイデンティティをより強固な物とするという目的のために他分野の人間に攻撃を加えるという事が実際に行なわれているという事です。最後に、自然科学分野にも、真実に対する誠実な姿勢を持たない人間は(悲しい事に数多く)いるということです。

(続く)
七夕近し (2005/07/21(木) 02:47:11)
珍しくコメントをいくつか付けてもらっていますが、ちょっと置いておいて(汗)

知人がこういう話を書いていたのでその関連で。

知人が書いていたのは、特に科学ジャーナリストとして有名な立花隆が駒場で行なった講義の講義録(というかレジュメ)で、立花隆がおそらくは専門的には学んでいない事項について相当におかしな理解が見られるという事。二つのグループが別々に講義録を作っているので、基本的には本人が語った事でしょう。

WEBサイト:http://www.sakamura-lab.org/tachibana/
講義録1:http://www.sakamura-lab.org/tachibana/first/06minj/start.html
講義録2:http://www.sakamura-lab.org/tachibana/first/t6/index.html

こうした立花隆の批判っていうのは、立花隆の著名度が高まるのと同時に結構出てくるようになっていて、かなり以前からネットでも見かけるようになりました。改めて検索してみたのですが、
http://www.ywad.com/books/1103.html
http://www.ywad.com/books/1102.html
このページなんかは、高校生の頃にも見た記憶があります。

私は実は、トンデモ科学の類が大好きなので、こういった専門家とは一線を画しながら、なお自然科学に積極的に関わりを持つ、あるいは積極的に言及する人々の行動パターン、発言パターンという物にかなり慣れ親しんでいます。そして多くの場合それは、その性質上当然と言えば当然ですが、非常に好ましく感じられる姿勢です。しかし問題がある、と強く感じるケースも頻繁にあります。私自身非常に限定された分野の初学者中の初学者ではありますが、いくつか、この人は間違った理解をしている、と明確に判定できる話題はあります。しかしながらこうした感覚には、その人がある特定の事項について正しい理解をしているかどうかはほとんど関係しません。問題があると感じられる基準を最も簡単に一言で言い表すならば、真実の何たるかに一片の興味もなく、人間関係にしか興味がない、それでいながら真実の探求者であるかのように振舞っているという事です。

物理学に限らず多くの学問分野は、真実の探求という強力な目的意識を持っています。特に物理学は、この世界で我々が実際に経験する現象について、何が正しくて何が正しくないのか明確に理解したいという強力な目的意識の下に発展してきた学問です。従って、部分的にでも物理学を学ぼうとする場合、まず何をおいてもその目的意識を共有しなければなりません。

(続く)
エデュケーションツー (2005/05/16(月) 04:51:46)
エデュケーション」の続き。一応校正した後、五月祭で販売する文芸部の静寂に載せるつもり。

「試験のための勉強は悪か」という章を設けるつもりだったのだけれど、時間がないので見送り。その代わりに「大学は言われているほど悪くない」という章を設けたけれど、これは最後にきれいに締めるために入れただけで、主張したかった事そのままではない(書いた事自体は大体思っている事だけれど)。また物理学関係の事も焦点がぼやけてめちゃくちゃになってきたのでだいぶ削った。
マナーオブケータイ (2005/05/13(金) 03:18:50)
携帯電話の車内マナーという奴が嫌いだ。特に、その形成された経緯が。

僕自身携帯電話というツールは余り好きではない。しかしマナーという言い方は個人の内面にまで踏み込んだ概念だ。その押し付けがましさがまず頭にくる。だからまずここにはっきり書いておこう。少なくとも僕は、電車内で携帯電話を使っている人間がいても気にしない。

マナーという物は十分に長い期間をかけて自然に形成されていく物のはずだ。全くあたらしい、そして多くの人が所持するようになったツールが出現すれば、社会的な合意のあるマナーの存在は期待できないから、各々の場所、空間、状況において上位的な立場にある人間や組織が大体合理的と思われる規則を定める事になる。そういう物であったなら納得もいっただろう。

だが実際には、マナーが滅茶苦茶性急に作られた。それは鉄道会社にたくさんの苦情が寄せられたからだ。しかし当たり前の事だが、車内で携帯電話を使いたいと思っている人や使っている人がいても気にしない人はわざわざ鉄道会社に連絡したりはしない。鉄道会社は何のポリシーもなくただ苦情をなだめるためだけに表面的な対策を行った。別に彼ら自身が何らかの根拠があって携帯電話を問題視していたわけではなかったから、その対策は車内アナウンスのような、大した効果のない、対策をしているという事実を作るためのものでしかなかった。そして何の拠り所もないから、その後ろ盾を存在しないマナーに求めた。しばしば見られる「お客様のマナーに期待する」という言い回しが、どれほど大きな要求を客に対し行っているのか、全く認識しないで。単に規則に従うというのみならず、ある特定の価値観を受け入れる事を要求するという行為は著しい暴力性を持っている。

だけれど、そうした車内では携帯電話を使ってはならない、という風潮が強まるにつれて、きちんとした対策を行って車内マナーを徹底させよ、という声は強まり、そして同時に車内で携帯電話を使ってはいけないなんておかしい、使えないと不便だ、という声も大きくなっていった。

すると、(似非)マナー、つまり社会正義なんぞを不用意にも後ろ盾にしてしまった鉄道会社は身動きできず板ばさみになる。このストーリーの我慢できないほどの醜さは、この時点で、ペースメーカーが電磁波により誤動作を起こす問題が、議論の落とし所として担ぎ出された点だ。

その結果として、もともとは車内で携帯電話を使うな、というのは一部の人間の個人的な感情に基づく主張(どこかの時点で公正な判断が行われるのならばこの事自体は悪い事ではない)だったのに、論点がすり変わって、それにも関わらず陣営の支持者はほとんど移動していない。

また、本当にペースメーカーの誤動作に問題意識があるならば、改めてその問題意識の下に真摯に問題を検討すべきなのに、それはほとんど行われていない。本当にそこに問題となるポイントがあるのならば、現在の車内マナーの不徹底は大きな問題だろうし、ペースメーカー側のシールド技術の改善も考えるべきだろう(これは皮肉や逆説ではない。つまりこのストーリーで腹が立つのは最終的にペースメーカーの誤動作問題が決着をつけたにも関わらず、ペースメーカーの使用者はほとんど利益を受けていないということだ)。

そうして結局、携帯電話は十分近くないとペースメーカーの誤動作を引き起こさないという事実(調べてみたら安全性のためにマージンをとって22cmだそうだ)が対立構造の妥協点を作り出すために利用され、優先席付近では利用するなとか、混雑時には利用するなといった歪なマナーがはびこる事になった。ペースメーカーに関する「科学的」な根拠を後ろ盾としていない、奇数車両ではうんんちゃら、偶数車両ではなんちゃら、等はその投げやりな潔さに感服するが、一体こうした規則を考えた人間は、誰かがこうした規則を守るなどと本当に期待しているのだろうか。

こうして、ペースメーカーの誤動作という疑似科学によるどう考えても現実的でない八方美人な「マナー」がいくつも考案され、それらは社会的に合意を受けたマナーであるかのように偉そうに振舞い、それでいて実際には人々の携帯電話の所有率は相当な割合を占めるようになって誰もがマナーなど気にせずに車内で携帯電話を使用している。主義主張がどうたらという事以前に、このあまりに歪んだ状況が、吐き気がするほど嫌でならない。
#ここで疑似科学と言っているのは、進化論が優生思想の根拠とされたように、科学的事実が特定の考えの根拠として歪んだ形で用いられているという意味です。つまり、ペースメーカーが誤動作するという問題はもちろん車内で携帯電話を使うべきではないという主張を補強するものですが、車内で携帯電話を使っている人に対する苛立ち等の感情を指示する物であるかのように利用されたのが問題なのです。ペースメーカーが電磁波によって誤動作を起こすということ自体は事実ですし、その影響は大部分の製品と常識的な状況の下ではごく小さいとは言っても、生命維持に直結する装置である以上最大限に安全策をとるべきという考えは間違っているわけではないでしょう。
エデュケーション (2005/05/09(月) 02:53:06)
トゥルース」 の続き。の前半。

やはり大上段すぎるか。一般論にこれほど筆を割く気はなかったのだけれど…。
トゥルース (2005/05/02(月) 02:59:06)
「ゆとり教育の成果?基礎学力が向上」とかいうとんでもないニュース記事を読んで、ちょっと色々思うことがあったので、何か書こうと重い、その前振りとしての長文。

この記事についてはすでに見つからなくなっているので同じ話題の記事を。
<学力テスト>「好成績」戸惑う文科省 なぜ、上向いたのか
<学力テスト>成績アップ どう評価?揺れる学校現場

この前振りの長文自体はちょっと一般論としては大上段すぎてあれかもしれない。
メグミサン (2005/03/28(月) 02:19:24)
横田めぐみさんの遺骨が偽物だったとかのあれやこれやなんだけど、死んだという証拠が偽物だった事を北朝鮮を非難する中心的な問題点に据えるのは、まるで横田めぐみさんの死という結末を求めているみたいで非常に危うい物があると思う。もちろん今回の、北朝鮮の横田めぐみさんは死亡しているという主張に基づいてその証拠を要求し、それを鑑定するというプロセスは全く正しい物だと思うのだけど、ここに至っては、もはや横田めぐみさんが生存していて日本に帰国させるという結末以外は受け付けない、これ以降に横田めぐみさんが死亡したり、あるいは既に本当に横田めぐみさんが死亡しているのだとしても、その場合にはもはやこの問題が解決する事はあり得ないという強硬な姿勢を見せなければならない。さもなければ、横田めぐみさんがこれから殺害されるという事態が起こり得る。

つまり、
A.横田めぐみさんが現在実際に死亡していて、その確かな証拠が提出される
B.横田めぐみさんが現在生存しているのだが、これから北朝鮮が横田めぐみさんを殺害するという行動に走り、改めて死亡の証拠を提出してくる
C.横田めぐみさんが現在生存していて、外交努力がみのって日本に帰国する
の三パターンがあるわけだけど、重要な事はB.は絶対に避けたいという事、C.が一番望ましいという事、そしてA.である場合はこの問題がどんな経緯を辿ろうとも日本側には、外交カードが数枚手に入る以上の利益が生まれない事だ。そしてB.は事実に反してAであるかのように見せようという行為なのだから、例え真実がA.であったとしてもそれを受け入れないという姿勢をとる事でB.を回避する事ができる。また、事実A.であったり、あるいは北朝鮮がB.を選択したならば、この問題が解決する道は閉ざされるという事になる。この事は北朝鮮にとってのみ不利益となる事だから日本側があれこれ思い巡らす事はない。

この問題についてA.だとしたら遺骨を偽造するはずがない、とか遺骨のような十分な証拠能力のある死亡の証拠からは死亡時期が判定できるからB.をとる事はないはずだ、等とわざわざ知恵を絞って推測をめぐらせる必要はない。重要な事はC.以外、すなわちB.のみならずA.すらも日本側にほとんど利益をもたらさないという事だ。そして既に一度A.の機会を与えてあるのだから、これ以降は真実がどうであるかに関わらずA.を拒絶するべきなのだ。

#もちろん北朝鮮との外交問題は、軍事的緊張を緩和したいという背景があるわけで、その意味でこの問題を解決する事は人が一人生きているか死んでいるか等とは関係なく大事な事なのだろうけれど、そういう事情を欠片も匂わせないで行うのが外交ゲームの鉄則であるはずだ。
どれほど実験と理論があらゆる場面で一致するようになっても、常に、どうして世界がそのような理論に従っているのか、という疑問から逃れる事はできない。

物理学者にとっての最大の不安は、明日から突然、世界が全く異なる物理法則に従い始め、これまでの努力が灰塵に帰すかもしれないという事だ。物理学は世界がどのように作られているかを教えてはくれるけれど、世界が何故そのように作られているかを教えてはくれない。

ところが実際には、そういう事はおきていない。それはもちろん、これまで偶々世界はこの物理法則にしたがって動いてきただけという事で、次の瞬間には異なる物理法則に従いだすかもしれない。だけれど、世界がある(完全に明らかにはなっていないにせよ)物理法則に従っていて、これからも従い続けるだろう事を僕らは半ば盲目的に確信する事をこれまでの所許されている。

ひょっとしたらこの確信は幻想なのかもしれない。しかし、世界がかくある理由がちゃんと存在し、このような確信が正当化されるのならば、それを明らかにし、明日から世界が異なる物理法則に従い出すかもしれないという恐怖を払拭したい。これは世界を理解しようとする物理学にとって十分に正当な問題意識だ。
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